数年ぶりに執筆する平和への道の記事です。
今年の平和への道は、戦後、つまり終戦後のお話となります。
数年前から下書きを書いては消してを繰り返していた記事を公開するにしました。
今回の記事では黒川開拓団についてお伝えしたいと思います。
では、一緒に素敵なタイムトラベルの旅へ
黒川開拓団とは?
「黒川開拓団」という言葉をご存知でしょうか?
1941年から数年に渡り満州に入植した岐阜県加茂郡黒川村(現在の白川町)の開拓団のことです。
この開拓団にいた少女達は非常に残酷な「悲劇」の歴史を辿ることになります。
黒川開拓団の歴史
1932年
日本から満州への移民が始まります。
1936年
広田弘毅の内閣では、満州への移民が七大国策の1つとして挙げられました。
その結果、多くの開拓団民が満州へ渡ることになりました。
二十カ年百万戸送出計画が、満州国への大規模な日本人移民政策を指します。
元々は拓務省が、関東軍の作成していた「満州農業移民百万戸移住計画」を参考にして作成したもので、それを広田弘毅が国策の1つして発表した形になります。
1941 年4 月
岐阜県加茂郡黒川村(現在の白川町)から、まずは29名を満州に派遣しました。
1942年4月
1942年4月から毎年3回に渡り派遣し、計129世帯、合計661名を派遣しました。
戦時中
渡満後、多くの開拓団の人達は関東軍の手厚い保護の下で暮らしていました。
しかし、情勢が一転します。
派遣場所は、吉林省・陶頼昭です。
ここは満洲の新京(現在の長春)とハルビンの中間地点です。
戦争は激化し、中国大陸戦線と太平洋戦線が激戦となるにつれて、自分たちを守ってくれていた関東軍は根こそぎ徴兵されることになります。
その結果、守ってくれるはずの人たちがいなくなり、自分たちの身は自分たちで守らなければいけなくなります。
成人男性は徴兵されていたので、残ったのは老人、女性、子どもだけでした。
1945年(昭和20年)8月15日
襲撃の危機
守ってくれるはずの関東軍がいない中、敗戦によって、開拓民は支配民族から転落しました。
敗戦まで支配されていた先住民の中国人は暴徒化し、弱体化した開拓民へ虐殺や略奪、暴行、強姦といった数々の残酷な暴力をし、襲撃してきました。
暴徒化したのは、中国人だけではなく、日ソ中立条約を破棄して侵攻してきたソ連軍も含まれます。
黒川開拓団と隣接していた熊本県の来民開拓団、広島県の高田開拓団は襲撃の圧力に耐えかねて、集団自決して全滅していました。
もちろん、この情報は、黒川開拓団にも入ってきたので、黒川開拓団の中でも服毒自殺して集団自決するかどうかの選択に迫られていました。
ソ連兵に求めた助け
運命が変わったのは、ここからです。
黒川開拓団の男性幹部が、現地住民の襲撃から身を守るために一つの決断をします。
それが「ソ連兵に助けを求める」ことです。
偶然、黒川開拓団の中にロシア語が話せる人がいたので、その人を通じて、派遣先であった陶頼昭駅付近に駐在していたザバイカル軍第36軍のソ連兵に助けを求め守ってもらうことにしたのです。
助けてもらう条件として出されたのが、数えで18歳以上の12~15人の未婚女性による「接待」です。
1946年10月~
ソ連軍からの強制的な行為ではなかったのですが、暴徒化した兵や先住民の襲撃から団を守り、食料や塩を提供してもらう代わりの取引として、数えで18歳から21歳までの未婚女性が差し出されました。
では、なぜ若い未婚女性にしたのかというと、夫や子供のいる女性には頼めないということからです。
女性の中には、「絶対にいやです」と言って、拳銃を持って飛び出した人もいたそうですが、当時21歳だったリーダー格の女性が「日本に帰ってお嫁に行けなかったら、お人形のお店でもやって一緒に暮らそう」と言って、全員をなだめたそうです。
接待
1946年10月から約2か月間もの間、開拓団の中には「接待所」や医療室などの接待をするための場所が設置されました。
週に2回~3回ほど接待所に設けられたベニヤ板張りの部屋に5~6名の女性が呼ばれ、女性1人当たり4人の将校の相手をされられていました。
このベニヤ板張りの部屋の外にある医務室で、洗浄係がソ連兵の持ってきたうがい薬をホースで性器から子宮に入れて性病予防をしていました。
しかし、この方法で予防はできるはずもなく、毎日複数の将校との性交を余儀なくされていたため、性病や発疹チフスなどに罹患し、15人中4人の女性が命を落としています。
「接待」とだけ伝えられ接待所に連れてこられた当時17歳の女性は、酒宴の場だと思い部屋に入ると、目の前には布団が並べられており、将校に銃口を向けられ強制的に寝かされ、銃を背負ったままの将校に強姦されました。
当時17歳や18歳の少女は「お母さんお母さん」と泣きながら、手をつなぎ、耐えていたそうです。
引揚げ
1946年7月から10月から3回に分けて、451人の黒川開拓団が福岡県の博多港や長崎県の佐世保港などに帰還しました。
満州に渡った661 人のうち200 人が満州で命を落としています。
黒川開拓団の引揚後
帰国後の中傷と差別
黒川開拓団は彼女たちのツラい「接待」で生きて帰ることができました。
しかし、そんな彼女たちに待ち受けていたのは中傷と差別です。
他の女性の身代わりで「接待」の回数が多かった女性には、「●●さんは好きだなー」とからかわれ、「(身体を提供しても)減るもんじゃない」と言われていたそうです。
また、当時は貞操は守るべきと教え伝えられていました。
しかし、自己意思に反して無残にも貞操を奪われた彼女たちには、「露助(ソ連兵)のおもちゃになった人」「満州帰りの汚れた娘」という形で、村人の間に根強く植え付けられました。
乙女の碑の建立
1982年
旧満州黒川開拓団・黒川分村遺族会が、佐久良太神社内に乙女の碑を建立しました。
建立当時は、「接待」のことにはまったく触れられていませんでした。
1983年
記念誌が発行されます。
この記念誌の下書き段階では、匿名で「接待」の内容が叙述されていました。
しかし、最終的には「満州国で亡くなった女性たちの碑」という形での表現に留められ、発行された記念誌も黒川開拓団関係者によって買い占めされたりしました。
2012年
父親が女性をソ連兵に案内する役割をしていた男性の藤井宏之さんは、旧満州黒川開拓団・黒川分村遺族会会長に就任し、初めて「接待」の事実を知ることになります。
それは安江善子さんが、満州での体験談を話す講演会で話し始めた突然の告白でした。
本当に悲しかったけども、泣きながらそういう将校の相手をしなければいけない。辱めを受けながら、情けない思いをしながら、人生を無駄にしながら
これは戦後、ひた隠しにされていた事実である性暴力の被害を初めて公に明かした瞬間でした。
この事実を知って、「接待」のことを碑文に残す活動を開始しました。
2018年11月18日
旧満州黒川開拓団・黒川分村遺族会が被害女性の理解と承認を得て、新たな碑文が完成し、除幕式が行われました。
2022年
黒川開拓団についての書籍が発売されます。
まとめ
冒頭でもお伝えしたように、この記事は数年前から執筆していました。
公開することなく保存しておこうかと考えていた記事です。
理由はいくつかありますが、一番大きな理由が「性被害」です。
歴史会議に公開する記事は、基本的に個人的な感情等は一切排除して中立公平な立場から客観的に事実だけを書くことにしています。
しかし、内容がセンセーショナルで女性の性が搾取されていた事実ですので、男性が執筆する記事としては中立で客観性が損なわれてしまうのではないかと考えました。
そのため、公開することを控えていたわけです。
歴史会議の使命は『世界中の「あらゆる歴史」を収集・分析・整理し、どこよりも分かりやすく発信すること』にあります。
戦後の満州で行われたソ連兵による残酷で残忍な性加害の歴史も、どこよりも分かりやすく発信しなければいけないと思い、公開することにしました。
戦争被害者には終戦という言葉はなく、ずっと戦時中
記事を書いているときに思ったことがあります。
戦争被害者には終戦という言葉はなく、ずっと戦時中なんだということです。
なぜか。
安江善子さんが遺した「乙女の碑」の詩の原稿に赤ペンで「泣いてもさけんでも誰も助けてくれない。お母さん、お母さんの声が聞こえる」と書き込まれていたそうです。
「接待」という言葉で和らげられて表現されていますが、安江善子さんは詩の中では「人柱」と表現されています。
この精一杯の表現が、いまなお尊厳を踏みにじられ、蹂躙されているということが分かります。
戦後の平和な日本に生まれ、育ち、生きている私たちは、事実を伝播していく使命を持っているのだと思いました。
戦後79年、世界は平和ではありません。
今回のタイムトラベルの旅は終了です。
では、また一緒にタイムトラベルの旅に出ましょう。
もっと詳しく黒川開拓団を知りたい人へ
最後まで記事をお読みくださった方は、黒川開拓団に大変ご興味がある方だと思います。
そんな知的好奇心が旺盛な読者の方へおすすめの書籍をご紹介します。
是非、参考にして読まれてみてください。