今年もやってきました。
広島県民は絶対に忘れてはならない、あの日です。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分
広島の中心部が、閃光とともに跡形もなく消え去った瞬間でした。たくさんの人が愛する人、大切な人、親や兄弟、友人などを失った瞬間でもあります。
痛い痛い、苦しい苦しい、熱い熱いと泣き喚く中で、歩けば死体が転がって、母乳を求めて声を掛ける母がおり、皆が自分のことで必死でした。
私は、この広島の戦禍を世界へ伝えたいと思い、『平和への道』シリーズを始め、毎年、8月6日に記事を出して来ましたが、それも今年で6年目です。
6年目の今年は、地獄絵図のような戦禍の中で食べられていた国民食を、皆さんにお伝えてしていきたいと思います。
戦争中の主食「すいとん」
今でも米は高いですよね?
安い米も売っていたりはしますが、やはり高いと思います。戦争中もそれは変わりません。貧困にあえぐ国民は、高い米ではなく安価に入手できる小麦粉で作った「すいとん」を食べていました。
1袋約150円で買った小麦粉を水で練って丸め、塩の味しかしない汁に落とします。具は、その辺りで採れる野草を入れ、食べるわけです。
たった150円で買える小麦粉でさえ高価な時代だったので、1日2回食べることができたら贅沢だったそうです。
これも途中までの話。
戦争が末期になると、「すいとん」すら「すいとん」では無くなります。
安価に入手できる小麦粉と表現をしましたが、正確には配給です。
最初は米が配給されていたのですが、段々と米の配給が少なってきます。その時に考え出されたのが、米に芋を混ぜてかさ増しをし食べるということです。
このときに芋を食べ過ぎて、今では芋が嫌いだという戦争経験者の方が仰っていました。
そして、米の配給が無くなり、とうとう小麦粉の配給になります。この時に考えられたのが『すいとん』です。
激化する戦争の中での「すいとん」もどき
戦争も末期になると、食料事情はどんどん悪化していきます。輸入もできず、物資が乏しくなってきて小麦粉すら不足していきます。それまでは配給されていましたが、小麦粉の配給すら無くなります。
そのときに考えれたのが、大豆粉やトウモロコシ粉、昆布、わめ粉、もしくは糠(ぬか)などで作ることです。ただ、本来のすいとんと呼べるものではなく、本当に不味かったそうです。
また、塩も大変、高価でした。当然、庶民に塩が買えるわけもなく配給もないので、塩水で代用したそうです。
そして、輸入ができないので燃料不足に陥りました。そのため、団子が中まで煮えず生煮えの状態で食べていたそうです。
では、そもそも『すいとん』とは?
『すいとん』とは、漢字では「水団」と書きます。小麦粉と水を混ぜてこねて、その生地を手で一口大に千切り、丸めて、汁で煮る料理です。
比較的昔から食べられていたそうで、室町時代の書物に『水団』と書かれているそうです。一部書物では、『水飩』とも書かれているそうです。
江戸時代になると、すいとん専門の屋台や料理店が出始めます。これは正しく「庶民の味」として認知され人気のあった証拠だと考えられます。ただ、大正中期頃になるとかなり減少し始めますが、関東大震災を始め戦争などで食糧事情が悪化し、再度、すいとん文化が復興を成し遂げます。
また、歴史会議の記事をすべてご覧になっている方は閃くと思いますが、うどんの歴史とも似ていませんか?
実は、『混沌(こんとん)』を『すいとん』と呼ぶ説もあります。確かに、作り方は似ていますよね。
最後に
私が歴史会議を始めた初心を思い出すドラマがあります。
『東京大空襲』
何度も涙を流しそうになり、当時の悲惨さがひしひしと伝わるドラマでした。
こういった戦争に関するドラマを見たり、主題歌の歌を聴くと、自然と歴史に関する本を開き勉強をしています。
私がおすすめするドラマの1つになります。是非、ご覧いただけたらと思います。
主題歌も貼っておきます。是非、聴いてみてください。
戦後75年
これからも早く地球上から誰も得をせず、喜ぶことも無い全ての戦争が無くなることを願って、歴史会議は日々、活動していきます。
世界から不毛な戦争が無くなりますように。