この度、「特攻」について再考することとなりました。
2015年8月6日の平和への道で「神風特攻隊」について論じたことがあります。それから2年の月日を経過して、この度、また「特攻」について考察することができるとは想像もしていませんでした。2015年の記事では私個人の考えや主張という側面は一切持ち合わせておらず、史実を中立的な立場から叙述したつもりです。しかし、今回は私の考えや主張を叙述したいと考えています。
さて、今回の論題は上述しているとおり、第二次世界大戦末期に大日本帝國軍が投入した「特攻」についての再考記事です。皆さんが如何なる立場に立っているかについては一切考慮をしていません。なぜなら、私が客観的に「特攻」について考察し熟考をしての論稿です。したがって、多分に批判点はあるでしょう。もちろん批判をするのは大いに結構ですので、客観的で終始一貫した論理的な批判をお待ちしております。
なお、「特攻」についてきちんと学びたいという方は、大日本帝国憲法の基礎知識と第二次世界大戦並びに当時の政治状況などの広範囲に渡る知識を身に着けることをおすすめします。
まずは「特攻」という制度についての予備知識がなければ理解し難いと思いますので、簡単に説明をしたいと思います。
特攻とは?
私は制度であることを強調するために「特攻」と言っていますが、「特攻隊」という表現の方がより正確でしょう。この特攻隊ですが、空を飛ぶはずなのに所属は海軍でした。この理由については、今回の論稿には必要ないので省きます。
次に、「特攻隊」制度が如何なる理由から、作られたのか不思議に思われる方が多いと思います。右寄りの方以外であれば不思議な感じを抱くのが普通です。この説明をしていきます。
特攻隊の誕生
特攻隊が作られたのは第二次世界大戦末期です。
第二次世界大戦末期といえば、世界大戦の契機を作った張本人であるアドルフ・ヒトラーが自殺をしたことが原因で、枢軸国の士気がガタ落ちになり敗戦が確定的になっていた頃です。敗戦が確定的になっていた理由は、これだけではありません。日本帝國軍の主戦力は数々の戦いで失っていました。
本来はここまで来ると降伏するべき段階で、今は亡き昭和天皇も同様に降伏することを議会ならびに軍に要請していましたが、帝國軍は降伏を受け入れようとしませんでした。
前述したとおり、帝国軍は数々の功績を残してきた主戦力たる軍人が戦死していく中、主戦力になり得ない軍人や軍人に成り立ての若い人などで溢れ返っていました。降伏をするべき段階で続行を決意した以上は、どのように戦っていこうかと悩むのは至極当然でしょう。そこで帝國軍は、以前から提案されていた作戦を実行に移すことにしたのです。それが有名な「特攻隊」です。この時に選ばれたのが、後世にも名を残すことになった関行男大尉です。
終戦の日まで
当初、特攻隊は一回限りの編成でした。しかし、みなさんもご存知でしょうが終戦の日まで続いています。それは何故でしょうか。既述しているとおり、帝國軍には主戦力になり得る軍人の大半が戦死していました。そうなると当然、軍人に成り立ての若い人や戦力になり得ない軍人が残っているということになります。では、この軍人をどのように戦わせましょう。これを解決するために、あらゆる理屈を付けて「特攻隊」は続行されたのです。
つまり、主戦力になり得なくても、日本国に攻め入ろうとしている敵軍の数を減らしてくれればいい。しかも、軍資金の底も尽き始めた。よって、残っている戦闘機と残存資金で作った飛行機で相手の士気を低めよう!ということになりました。この結果、ポツダム宣言を受諾するその時まで特攻が行われたのです。
「特攻」の意義
ここまで読まれた読者の方は、「特攻隊」について漫然と考える方はいらっしゃらないでしょう。ここからは、今回の論稿においての核心に入っていきます。
先に結論を申し上げると、「特攻隊」の意義について賛否両論あることは承知しておりますが、私は「否」を取らざるおえないと考えています。
以下の叙述において、その理由を論じていきたいと思います。
否定論
すでに既述しているとおり、「特攻隊」が編成されたのは終戦末期の降伏するべき時期でした。ここから分かるとおり、敗戦が確定している中で、なぜ「特攻作戦」を決行する必要性があったのでしょうか。この点、如何なる根拠付けをしても肯定的に取るのは困難を伴うでしょう。
確かに、中には戦術的価値、練度云々、戦果云々と仰られる方もいますが、それは敗戦が確定していない中で意義を発する意見です。つまり、勝戦の傾向があれば、国益の低下を阻止できたや帝国軍の戦力低下の一躍を担ったなどの意見も肯定されるでしょう。しかし、残念ながら敗戦の確定している中での苦肉の策です。
したがって、上記の意見は肯定的に取ることは困難を伴います。ここから、私は否定論を支持しています。
「特攻隊員」の意義
さて、それでも感情的に議論(?)を展開する人は、「特攻隊員が〜」「戦果が〜」と制度の論点からズレて、隊員に議論をすり替える傾向にありますので、隊員についても論じたいと思います。
形だけの志願制
よく世の中では、特攻隊員は自殺だと仰られる方がいます。では、なぜこのように言われるのでしょうか。既述しているとおり敗戦の確定しいるなかでの決行であったためでしょう。
では、隊員が上官から下命を受けて果たして断ることが可能だったのでしょうか。確かに、特攻隊は対外的にも対内的にも志願制でした。しかし、実際の運用では上官からの下命を受けて志願せざるおえない体制でした。この運用体制で純粋な「自殺」だと糾弾することはできるでしょうか。残念ながら、私は「自殺」だと言えないと思います。それは何故でしょうか。
自殺の定義と要件
現段階での私の自殺の定義は、自ら積極的に死を選択することにより、命を絶つことだと考えています。この定義から要件を引きましょう。そうすると要件は、①自ら②積極的に③死を選択し④命を絶つこと、これ加えて⑤他者の影響の及んでないことが解釈上必要でしょう。
以下、この要件にあてはめると、特攻隊は最終的に「自ら」志願しているため①に該当します。積極的に志願しているかと言われると上官命令のため消極的でしょう。したがって、②には該当しません。そして、死を覚悟して特攻している以上は③には該当します。さらに、④も③と同様の理由で該当します。最後に、⑤ですが、この⑤が最重要でしょう。なぜなら、「人の生命」という法益は他者の意向で害してはならないのは至極当然で通説です(ここから自殺関与罪や自殺教唆罪が存在します。)。したがって、上官という立場で権利を濫用した圧力による下命は他者からの影響が及んでいると解するべきであり、⑤には該当しません。
よって、特攻隊は「自殺」した考えることは困難でしょう。
なお、この点をより理解しようとするならば、刑法202条前段の解釈論を勉強して下さい。
特攻隊員の功績
最後に、特攻隊の功績について私感を含めて綴っておきます。
特攻隊員は建前ではお国の為ということになっていますが、数々の遺書や帝国軍の広報班や取材班の取材記録などには、家族のためや大切な人のために特攻隊として散っていったことが分かります。なぜ、家族や大切な人のために散っていったのでしょうか。それはこのまま帝国軍が敗戦すると、米兵などが日本に上陸し、家族や大切な人が苦しめられるという点を危惧していたことが関行男大尉の遺書には書かれています。その他の有名な英霊の方の遺書や取材記録にも言葉は違えど、似たような記載が多々あります。
現在の日本を振り返ってみましょう。沖縄の普天間には米軍基地があります。沖縄では米軍による強姦事件、殺人事件ならびに暴行事件が起きています。関行男大尉の言葉が現実になっているように感じられるのは私だけでしょうか。実際に米軍による屈辱的行為や辱められる行為などが阻止できたか否かに問わず、彼ら英霊には賞賛と言えば語弊がありますが、否定するべき点があると考えることは困難です。
是非、靖国神社に行かれた時は、明治政府を築き上げた倒幕派の人を含め、第二次世界大戦の英霊たちにも参拝礼拝をして頂きたいと思います。
最後に
私は終始一貫して「特攻隊」という制度は肯定的に捉えることはできませんでしたが、中には肯定的に捉える方がいることも事実です。
このように意見が明確に分かれる政策的行為、法的にいえば統治行為論な事柄には言及しない立場を取ってきました。しかし、 私のミスであったのですが誤解されやすい言葉を見た元同級生が見事に誤解した質問から始まりました。 そして論点がズレていき中途半端に議論(?)が終わったことから、再考をすることにしました。
再考する中で、かなり頭の中も整理されたのである意味では彼に感謝しています。
派生した議論としては、徴兵令ならびに兵役法などにも及ぶかと思われます。憲法改正が叫ばれているなかで、問題は徴兵令だともリベラルの方は発言しています。これらについては、皆様で熟考して頂けると宜しいかと思います。
※文献を参考にしたりしていないので、たぶんに誤りがあるかもしれません。
2017年8月15日、戦後72年を迎えます。