今年も8月6日が訪れました
我々、広島県民は夏休みの8月6日に学校に登校し、黙祷を捧げ、平和を祈念し、平和について考察する日です。それだけ、毎年思い出さなければならない日が8月6日なのです。
そこで、今年は原爆投下を発端として起きた 「 原爆スラム 」 を取り上げてみたいと思います。
原爆スラムとは?
原爆スラムという言葉をご存知でしょうか。原爆スラムという言葉は、広島県民でもあまり馴染みがないかもしれません。
あまり言葉を大にしては言えませんが、広島県民であれば「基町団地はガラが悪い」と聞かれたことはあるのではないでしょうか。現在では昔ほどガラは悪くないのですが、何故、そのようなことが言われるのでしょうか。それは、この原爆スラムが発端なんですね。
原爆スラムとは、広島市中区基町の本川沿いに広がっていたスラムのことです。別名を「相生通り(あいおいどおり)」と言います。
では、この原爆スラムを戦前と戦後に分けてお話していきます。
戦前の本川沿い
少し歴史を遡りましょう。
本川沿いは広島城に近い地域ですので、江戸時代には武家屋敷が広がっていました。
大政奉還により、江戸から明治に変わると陸軍第5師団が置かれます。そうなると司令部が必要になってくるんですね。そこで、武家屋敷が広がっていた地域は師団司令部や陸軍病院などの軍事施設が占領することになります。これが軍都広島の中核となり、後に軍都広島と呼ばれた発端です。
数々の戦争の時には大いに活躍したらしいのですが、1945年8月6日の原爆投下で、儚くも一瞬にして灰燼に帰しました。現在でも残っていると、非常に良い歴史的資料になったのではないでしょうかね。支柱などは残っていたらしいのですが、中央公園を建設するにあたり撤去されたらしいです。
戦争中に天皇が広島に来ていたので、一時期は首都になっていたとも言われています。果たして、これだけで首都と言えるのかは謎ではありますが。
戦後の本川沿い
今回の記事の中心となるのは、ここからです。
終戦を迎え、広島県や広島市は戦災者向けに公営住宅を、次々を建設します。当然、公営住宅にも限りがありますので、全員が入居できるわけではありません。入居が出来ない全財産を失くした市民や疎開先から帰省した市民が、焼け残ったトタンなどでバラック小屋を建てて住むようになります。これが所謂、「 原爆スラム 」です。
その後、日増しにバラック小屋は増えていきます。バラック小屋は素材はトタンや木材です。家と家はほぼ密着しています。そうすると当然、火災事故が後を絶ちません。それを解消しようと、広島県や広島市が総動員して高層住宅を建設することにしました。
約10年の歳月をかけ公営住宅、それに伴いショッピングセンター・学校などが建設され、原爆スラムの住民を転居させたわけです。これが所謂、「 基町団地 」です。
ここで少し豆知識を。
基町団地を上から見ると、無駄に凸凹していることに気付かれると思います。上から見なくても少し見上げると、やたら凸凹していますが・・・ これは、広島城に当たる日光を遮らないような工夫をしているそうです。つまり、広島城の優美な外観を壊さないためですね。よく考えられていますよね。
現在の本川沿い
現在は基町団地の道路を隔てた反対側には「広島市中央公園」があります。
この公園の中には、美術館(たまにビックリする展覧会があります)、図書館(結構、宝庫です)、総合体育館(珍しい武術もやっていたはずです)などがあります。そして、広島市民病院や広島県庁などもあり、昔も今も広島の中心的拠点となっています。
以前、病院内にあったコンビニのパン屋さんのメロンパンが広島県内でもダントツで美味かったのですが、無くなったんです・・・(個人的に重要なので色付けしました)
最後に
今回の記事は題材を思い付いて数時間で書いたので、ほぼ紹介記事になりましたが、戦後広島の復興の一部が伝われば幸いです。
原爆スラムの話は、広島で史学や建築学を勉強している方ならご存知かもしれません。基町高層アパート郡を設計した人は非常に有名な方だったはずですので・・・
しかし、原爆スラムの実態を知っている方は、少なくなっているのではないでしょうか。写真の提供をお願いをした広島市から許可が下りなかったので、写真が載せれなく大変残念ですが、今見ても想像を絶する実態です。
是非、こういうあまりスポットライトが当たらない箇所にも目を向けて、戦後の日本を考察して欲しいと思います。
2016年8月6日、原爆投下から戦後71年を迎えます。