皆さんは「からゆきさん」という言葉をご存知でしょうか?
19世紀後半に、主に長崎や熊本から東アジア・東南アジアに渡って働いていた日本人娼婦のことを言います。
九州地方から行くことが多かったので、九州地方で使われていた言葉です。
今回の記事では、「からゆきさん」の歴史について迫っていきたいと思います。
では、一緒に素敵なタイムトラベルの旅へ
からゆきさんの語源から誕生まで
からゆきさんの歴史は豊臣秀吉の時代まで遡ることができます。
1585(天正13)年
豊臣秀吉は大阪の道頓堀川北岸に遊女たちを集めた場所を作らせます。
これが「遊郭」の始まりと考えられてます。
このときに建設された遊郭は「新町遊廓」と呼ばれます。
1589(天正17)年
同じく豊臣秀吉によって京都・二条柳町に日本初の遊郭が作られました。
このときに建設された遊郭は「柳町遊郭」と呼ばれます。
1639(寛永16)年
西洋との唯一の窓口として栄えた長崎に誕生した遊郭が「丸山遊廓」です。
江戸幕府は出島や唐人屋敷への出入り資格を制限していました。
しかし、丸山遊廓の遊女だけは例外として許されていました。
- 出島へ赴く遊女たちは「紅毛行」
- 唐人屋敷へ赴く遊女たちは「唐人行」
長崎の唐人屋敷の近隣では「からゆき」という言葉が生まれ、これが後に「からゆきさん」の語源となってきます。
日本人男性相手の遊女は「日本行」と呼ばれていました。
親に捨てられた売春婦「からゆきさん」
売る春と買う春
からゆきさんとして海外に渡った日本人女性の多くは、農村や漁村などの極貧で貧しい家庭で育った15歳、16歳の少女たちでした。
その年端もいかない少女がたったの500円(現在の約1000万円)で売り飛ばされていました。
その中には10歳以下の少女も含まれていたようです。
主に渡った先は、シンガポール・中国・香港・フィリピン・タイ・インドネネシアのアジアでした。
しかし、一定数はアジア以外のシベリア・満州・ハワイ・北米・アフリカです。
本当に多様な国に行っていたことが伺えます。
地獄の密航
渡航は女性を斡旋する女衒(ぜげん)という男性の手引による密航でした。
幼き少女達を乗せた密航船の中は酷い状況でした。
多くが石炭などを置く船底に身を潜めますが、一部の人は窒息死する者もいれば、餓死しそうになる者もいました。
また、密航船なので真っ暗闇で便所もないので汚物は垂れ流しです。
実はこの汚物、役に立つ場面があったのです。
というのも、密航は約1ヶ月程度続く中で、世話役の男達と少女です。
当たり前のように性的暴行が行われる悲惨な日々です。
この暴力から逃れるために、自分の体に汚物をつける人もいました。
日本人が経営する「女郎屋」へ
密航を無事に生き延びた者は、日本人が経営する「女郎屋」へ連れて行かれます。
そこで幼き少女達は、初めてすべてを悟るのです。
密航費、宿泊費、手数料などのすべてのお金が自分の借金になることを。
まだ年端もいかない、15歳~16歳、中には10歳以下の幼女も含まれている中で、膨大な額の借金を背負わされていることを告げられるわけです。
そして、女郎、つまり売春婦としての手技を徹底的に教え込まれます。
プロの女郎として
ここで、とあるからゆきさんの記事を引用したいと思います。
この記事は、生前にからゆきさん小説を書きたいというこで、元からゆきさんの方をインタビューしたときのことが書かれています。
その中から引用です。
「忙しかときは痛かとですよ、あそこが。それで這(は)うて廊下と階段を行くとですよ。あれが女郎の地獄ですよ」
「そんなんとを、49(人)したよ。わたしゃ、一日一晩のうちに。いっぺん、そういうことのあった。昼の午前中、9時から。晩のちょっと3時ごろまでな。もうね、泣くにゃ泣く」
「ほんなごて、情けなか。いやらしゅうて、今も忘れられん。おそろしゅうて……」
引用:「1日で49人の相手を…」 過酷な労働、波乱の人生赤裸々に 「からゆきさん」肉声テープ発見 | 毎日新聞
客が多いときは朝から未明まで最大49人を相手にし、その痛みは廊下と階段を這うほどだそうです。
痛みは、ワセリンを塗ってしのいでいたそうです。
そんな過酷な労働環境での女郎の金銭面はどうだったのでしょうか。
『サンダカン八番娼館』に描かれた大正中期から昭和前期のボルネオの例では、娼婦の取り分は50%、その内で借金返済分が25%、残りから着物・衣装などの雑費、更にはフィリピン政府の衛生局での週1回の淋病検査、月1回の梅毒検査の費用もあり、その雑費の2倍が娼婦負担にさせられていました。
引用:1日で30人相手する日も…異国に売られていった日本人少女たち「からゆきさん」の売春の実態【後編】 (2022年5月24日) – エキサイトニュース
『サンダカン八番娼館』という映画は見ていないので、記事の受け売りになります。
給料は娼婦の取り分である50%です。
この50%の中から様々なものが引かれていきます。
まず借金返済分として25%が引かれ、この時点で残りが25%です。
次に、着物・衣装などの雑費、週1回の淋病検査、月1回の梅毒検査の費用が引かれます。
手元に残る金額は相当少ないものだったのではないでしょうか。
あまりの過酷さに、「月に一度は死にたくなる」と回顧した元からゆきさんもいたそうです。
過酷な性病検査
過酷な労働環境下の中で、さらに過酷さを増していくのが性病対策の『洗浄』です。
性病のまん延を防ぐために、客一人一人の相手が終わるたびに、膣内を消毒洗浄していたそうです。
客の相手が終わり、疲れた体をひきずりながら部屋から洗い場まで立派な階段を登り降りすることは、非常に負担の大きなことだったそうです。
この洗浄が原因で不妊になった女性が多数いたそうです。
では、なぜ娼館は毎回洗浄を求めたのでしょうか。
それは、週に1度の医師による性病検査に引っかからないようにするためです。
そして、妊娠対策として女郎1人に1冊の手帳を渡し、月経周期やいつ客を取ったかなどの詳細を細かく記録させていました。
この性病検査のときに、医師が問題ないと判断したらサインし、客も安全であるかの確認として手帳の提示を求めました。
不幸の続く身請け
からゆきさんと渡航した売春婦の多くは娼館に通う人に身請けされます。
身請けとは、男性が娼館への借金を肩代わりして、娼婦をやめさせることをいいます。
身請けする人の大半は、中国人男性や日本人男性でした。
少数派ですが、マレー人、フィリピン人、ヨーロッパ人もいました。
しかし、「愛人」としての身請けでした。
身請けされた後は、経済的には不自由のない暮らしをさせてくれましたが、子どもも持つという生き方はできないという選択でした。
ここまでがからゆきさんの歴史の秘話です。
記事を執筆しながらも、相当凄惨で過酷な労働環境の中で、「若さ」と「女」を売らされていたのだと考えると、男性のわたしでも考えさせられるものがあります。
次は、少し学術的な視点からみていきたいと思います。
帝国主義とからゆきさん
「からゆきさん」の学術的な研究がされていることがあります。
これからはそれをお伝えしてきたいと思います。
諜報員として
それは帝国主義の拡大に「からゆきさん」が重要な役割を果たしているのではないかという点です。
というのも、先にも叙述しましたが、からゆきさんの渡航先、派遣先の国は多種多様です。
主には、アジア各地のシンガポール・中国・香港・フィリピン・タイ・インドネシア。
しかし、一定数はアジア以外のシベリア・満州・ハワイ・北米・アフリカです。
例えば、1860年代以降は日本人の遊女や商人の日本人コミュニティが、ロシア極東の大半を占めていました。
中仏戦争では、からゆきさんの市場が作られたり、インドシナの日本人の大半はからゆきさんが占めるようになったりしていました。
また、ウラジオストクやイルクーツクの近辺では、からゆさきんがごりごりに任務を果たし、諜報活動をしていきました。
つまり、からゆさきんは日本政府の「諜報員」という側面もあったのかもしれません。
では、なぜ売春が見逃されたのか
この理由は2つあって、どちらも日本経済に与える影響は大きかったです。
- 1つは、朝鮮半島や中国の港では日本国民にはパスポートの提示義務がないこと
- 2つ目は、「からゆきさん」として働いた給金を外貨で日本に送金されること
そのため、「からゆきさん」となるべく若い少女が渡航するときも、日本政府からの妨害や摘発が全くありませんでした。
1919年になると中国が日本製品をボイコットしたために、日本政府はからゆきさんを見逃すことで、外貨収入を得ていました。
これはもう国策というレベルです。
まとめ
日本の歴史の中でもずっと明かされていなかった歴史の1つです。
しかし、元からゆきさんの証言によって少しずつ真実が明るみになってきました。
今回は日本の歴史の中でも忘れてはならないと思い、取り上げることにしました。
今後も新しい話を入手できたいときは、続編として記事にしていきたいと思います。
今回のタイムトラベルの旅は終了です。
では、また一緒にタイムトラベルの旅に出ましょう。