お久しぶりとなります。ともきどっとんです。
突然ですが、皆さんは引田天功というイリュージョニストをご存知でしょうか?
以前は頻繁にテレビにも出ていた奇術師、いわゆるマジシャンとなります。
マジックの演出はとても派手で、イリュージョンマジックといえば引田天功と言っても過言ではないほどです。
今回は、そんな引田天功の歴史を辿ってみたいと思います。
2代目引田天功
普段であれば、現在の引田天功までの歴史を順番に辿っていくのですが、今回の記事では遡る形で見てみましょう。
初代引田天功に師事
現在のよく知られている引田天功は2代目となります。
彼女は、18歳まで生きることが困難な難病を宣告され、アメリカで治療し過ごしていました。
奇跡的にもその難病は治癒することに成功し、日本に帰国することになりました。
難病と闘っていた彼女の心に抱いた夢は、「舞台女優になる」ことでした。
1976年
その夢を母に伝えたところ、引田天功事務所の社長を勤めていた伯父のもとに連れていかれました
これが初代引田天功に師事するきっかけとなりました。
1976年の話です。
朝風まり
1977年
翌年の1977年に初代引田天功が心筋梗塞で倒れます。
初代引田天功が演出する予定であった「空中ケーブルからの大脱出」の代役に抜擢されます。
抜擢理由が「女性の方がインパクトがある」です。。。
1978年
さらに翌年の1978年6月21日。
異色のアイドルマジシャン歌手『朝風まり』として、CBS・ソニーから電撃デビューすることになりました。
プリンセス天功の誕生
1980年12月15日
両耳の鼓膜を破りながらも、初代引田天功の代役を立派に勤め上げた功績をかわれ、後援会の要望により2代目引田天功を襲名することになりました。
実は後援会のメンバーも豪華なのです。
後援会の会長は佐川急便の創業者である佐川清で、会員には田中角栄が名を連ねています。
佐川清は引田天功の父親の同級生でもあり、朝風まりの時代からの後援会会長らしいです。
イリュージョニスト
先代である初代引田天功の意志と教えを引き継ぎ「体を張った本物のイリュージョン」を守って、大掛かりな脱出イリュージョンを演出し続けています。
そのイリュージョンの一環なのかは分かりませんが、数々の伝説があります。
その一部もご紹介します。
- 両手両足を拘束されてガラスケースの中に入り、爆発する船からの脱出
- 全身の血液を交換した翌週にの公演に出演
- 鼓膜を張り替える手術を5回も受ける
- 機械のミスでナイフが刺さり肋骨を折る怪我を負う
数々の伝説を残しながら活動の拠点を海外に移し、世界各国で公演を行うようになりました。
世界中の人たちからはこう呼ばれます。
「プリンセス・テンコー」
爆誕。
テンコー&ザ・ガーディアンズ・オブ・ザ・マジック
引田天功といえば「アメリカで人形になっていて約束事が非常に多い」という情報はご存知の方が多いと思います。
実はこれ・・・人情ではなくアニメなんです。
1995年11月から全13話放送された『テンコー&ザ・ガーディアンズ・オブ・ザ・マジック』というアニメの安全確保とイメージを守るために決められた約束事なんです。
長さ1mにも及ぶ契約書の一例を紹介します。
- 24歳の年齢設
- 太っても痩せてもいけない
- 髪の毛の色は黒色
- 前髪の長さは規定の長さに従う
- 話し声はミステリアスでなくてはならない
- 化粧は指定された物を使用する
- 電車に乗ってはいけない
- コンビニやスーパーへ行ってはいけない
- 買い物は全て通信販売で買わなければいけない
- 東西南北に一人ずつボディーガードをつけなければならない
- 日本人と結婚してはならない(アニメの中でアメリカ人と恋に落ちる設定のため)
- 同じステージに「引田天功」と「PRINCESS TENKO」が現れてはいけない
多すぎて魔が差したのか、髪を金髪に染めたときに即座に電話が掛かってきて裁判に発展したそうですが、「あれはカツラです」と嘘をつき問題を回避したそうです。
このアニメに併せて、バービー人形初の試みである実在の人物をモチーフにした人形の制作が行われました。
そうです。引田天功をモチーフにしたテンコー人形が発売されますが、クリスマスには800万体もの人形が一斉に売り切れました。
驚嘆。
ちなみに、テンコー人形のライバルはセーラームーンです。これはアメリカでのアニメの放送が同時期にあり、人形の販売競争を繰り広げたからです。実在の人物VS空想の人物。
初代引田天功
現在の2代目引田天功の師匠となる初代引田天功です。
彼は水中や爆発の中からの大脱出を得意芸とし、「日本の脱出王」と言われていました。
30代くらいまでは凡人並の人生でした。
日本テレビでの特番
彼が一躍有名になったのは、1968年から1975年の7年間に渡って放送された日本テレビでの特番で披露した7回もの脱出イリュージョンです。
放送の度に毎回高視聴率を記録し、日本中で脱出ブームを巻き起こしました。
テレビとタッグを組んで大規模なマジックを披露するというスタイルを確立したパイオニアとして、日本のマジック業界を牽引していく存在となりました。
しかし、晩年は少し変わってきます。
催眠術パフォーマンス
晩年は身体に負担をかけずにも、視覚的にインパクトのあるイリュージョンを行おうとします。
そこで取り入れたのが「催眠術パフォーマンス」です。
というのも、晩年は心筋梗塞などの心臓疾患で大変苦しんでいました。
一方で、「ナイアガラ瀑布脱出」などの新しい大規模な脱出イリュージョンも構想していたそうですが、やはり病気には勝てず、実現するこことはありませんでした。
1979年大晦日。
45歳という若さで心臓病で亡くなります。
松旭斎天洋
名前、読めますか?
わたし・・・全く読めなかったんですよね
「しょうきょくさい てんよう」と呼ぶそうです。
そんな読み方が非常に難しい天洋さんは、初代引田天功の師匠となります。
松旭斎天一へ弟子入り
系譜として大変凄い天洋さん、大変な苦労人です。
母親は師匠となる松旭斎天一の姉なのですが、子どもの頃は大阪で丁稚奉公しなければならないくらいに貧困でした。
しかし、16歳のときに伯父の松旭斎天一に弟子入りし、「天一一座」で雑用をこなしながら奇術師として腕を磨いていました。
師匠の天一の死後、「天洋一座」を旗揚げし、座長として活躍するも不景気の荒波には勝てずに、一座の財政は圧迫されていきます。
財政的に困った天洋さんは、手品が趣味であった友人である緒方知三郎に相談をしました。
緒方知三郎の一言は世を変えます。
「手品の世界を一般の人たちに開放してはどうだろう?」
当時の日本奇術界では手品の商品を一般人に販売することはタブーでした。
しかし、財政が圧迫している天洋一座にそんなことは関係ありません。
天洋奇術研究所を開設
1931年に東京の新富町に「天洋奇術研究所」を開設します。
そこからは実演販売を行う日々です。
三越日本橋本店で実演販売をきっかけで、三越各店で実演販売行うことになります。
そうすると、すごい好評で天洋一座の財政は好転に転び、大変潤うようになりました。
天洋一座の財政を救った「天洋奇術研究所」が後の株式会社テンヨーとなります。
職業奇術家団体同好会の創立
「奇術界の発展、奇術師同士の技術向上、親睦」を目的とした「職業奇術界団体同好会」の創立の会合が開かれ、初代会長に松旭斎天洋が就任することなります。
これが後の「日本奇術協会」となります。
日本奇術協会とは、日本で唯一のプロマジシャンのための団体となります。
正会員に2代目引田天功もマギー審司もいる凄い団体となります。
日本奇術界の「中興の祖」
このように日本奇術界の発展と普及に貢献し、日本奇術協会を通じての世界での活躍などの業績から、日本奇術界の「中興の祖」と呼ばれています。
それを表すように、日本奇術協会では2度も会長に就任しているほどです。
松旭斎天一
登場しました。
2代目引田天功へ繋がる系譜の源流です。
読み方は「しょうきょくさい てんいち」です。
本名は・・・服部松旭です。
読み方は・・・「はっとり しょうきょく」です。
そうです。松旭斎とは天一の本名の一部から取られています。
手品を学ぶ
大阪の見世物小屋で西洋手品を見て感動した天一は、興行や見世物を行っていた西洋人のジョネスから西洋手品を学びます。
その後、ジョネスと共に上海を巡業しながら、西洋と中国の手品を学びます。
松旭斎派を開く
翌年帰国した天一は、「天一一座」を旗揚げをすることになり、松旭斎派を開くことになります。
- 「切支丹バテレンのハリツケ」
- 大礼服姿で演じる「陰陽水火の遣い分け」(水芸)
- 「サムタイ」
などの代表的な奇術で人気を博し、当時では飛び抜けて高価な1円という入場料を取り、大掛かりな奇術を行いました。
もちろんこの奇術も大成功し、以降は大掛かりな奇術を得意とすする奇術師へとなっていきます。
「手妻」「放下」「手品」等の総称としての「奇術」という言葉を一般化した「近代奇術界の祖」といわれています。
まとめ
今回の記事では2代目引田天功の系譜を辿ってみました。
どうでしょうか?
現代の日本奇術界を確立させた松旭斎派の直径の系譜だと考えると、偉大なマジシャンであると感じてくると思います。
日本の近代奇術界は大掛かりな奇術であるイリュージョンをベースに構築されていることも分かりました。
これは結婚式やイベントを華やかに彩る演出としても大変有用だと思います。
一般人が練習を始めてすぐにできることでもないので、プロに任せるのが良いかと思います。
トミーエンタープライズ
そこで芸歴20年・5000以上の公演実績がある会社の代表が自ら出張をする出張型マジシャンをご紹介します。
①社長自身がマジシャンとしてイベントへ出張
一番の強みとなるのが社長自身がマジシャンとしてイベントへ出張することです。
そうすることで、経営・企画・企業ブランド・タレントすべての視点から俯瞰することができ、イベントをより盛り上げることができます。
②信用信頼の世界で20年以上トラブルゼロ
社長は20年の芸歴と1万以上のタレント派遣経験に裏打ちされた豊富な実績と経験で、どんなアクシデントが発生しようと、「企業パーティー」「結婚式」などでのイベントを必ず成功に導きます。
③海外に人気な日本伝統芸能「和妻」が見られる
和妻、読み方は「わづま」です。
日本に古来から口伝で受け継がれてきた伝統的な奇術です。
これを老若男女が楽しめるように現代風にアレンジをして、オリジナルの「音と奇術の融合」という華麗な演出をお届けしてくれます。
5000以上にも及ぶ公演実績を誇るマジシャンが、関東の人にだけの特別価格で結婚式や芸術鑑賞会への出張が可能。
- 関東だけの特別価格!
- 人気な「和妻」が見れる!
- 絶対成功させる確約!