華族シリーズ第3弾となります。
前回は華族のトップである公爵についてお話しました。
今回は、華族序列第2位の侯爵についてお話をしたいと思います。
では、タイムトラベルの旅を一緒に楽しみましょう。
侯爵とは?
五等爵の2番目の爵位ですが、待遇は他の爵位よりも酷いものでした。
華族には、明治政府から品格保持のためのに給付金が支給されていました。
公爵の記事でも紹介しました『家門永続資金』です。
この資金が一銭も支給されませんでした。
次に、満30歳になると自動的に終身貴族院議員なれましたが、給与である『貴族院議員歳費』が一銭も支給されませんでした。
そうです。ただのタダ働きです。
熱心な運動を続けて伯爵から陞爵した結果、金銭面では伯爵以下にも劣るという残念ぶりです。
ちょっとややこしい読み方
侯爵の読みは「こうしゃく」です。
一方で、公爵の読みも「こうしゃく」です。
そうです。読み方は全く同じなんです。
しかし、由来が全く違います。
- 侯爵の「侯」は、諸侯を表しています。
- 公爵の「公」は、公家を表しています。
公爵の「公」についても、公爵のページにて詳しくお話していますので、ご覧ください。
読み方に工夫しています。
読みが同じだと、話しているときに戸惑いませんか?
頭の良い人は考えました。
「侯」と「候」の字体が似ているので、「そうろう-こうしゃく」と読むことにしたんです。
侯 ー 候
違いが分かりますか?
私はずっと気付かなかったです。
侯爵になれる条件
皇族
皇室典範増補以降に臣籍降下した皇族です。
しかし、実際に叙爵されたのは3家のみです。
あれ?公爵よりも多いですね。
公家
主には、公家であった旧清華家が該当します。
清華旧家7家(三条家・西園寺家・徳大寺家・久我家・花山院家・大炊御門家・今出川家)と新家2家(広幡家・醍醐家)の合計9家が該当しますが、三条家・西園寺家・徳大寺家の3家は公爵となりました。
この時点で、6家が侯爵となります。
そして、明治天皇の外戚である中山家・嵯峨家・中御門家・四条家が功績が認められ、伯爵から陞爵し侯爵となりました。
結果、公家からは合計10家が侯爵となりました。
武家
徳川御三家及び旧大藩知事(戊辰戦争後の時点で現米15万石以上)が該当します。
徳川御三家からは、尾張徳川家・紀州徳川家の2家です。
水戸徳川家は公爵に陞爵したのでいません。
次に、旧大藩知事からは、浅野家・岡山藩池田家・鳥取藩池田家・黒田家・佐竹家・鍋島家・蜂須賀家・細川家・前田家・山内家の10家です。
島津家と毛利家は?と聞きたくなる方もいるかと思いますが、当初は侯爵でしたが、公爵に陞爵したのでいません。
最期に、越前福井藩松平家と伊予宇和島藩伊達家に2家が明治維新の功績が認められ、伯爵から陞爵しました。
結果、武家からは合計14家が侯爵となりました。
旧琉球藩王家
旧琉球藩王家からは尚家のみです。
琉球藩については、いずれ記事にしたいと思います。
勲功者
華族制度の発足当時は、大久保利通と木戸孝允の子孫のみに叙爵されました。
次第に叙爵される人が増え、13家が叙爵、そのうち5家は公爵に陞爵しました。
結果、新華族からは10家が侯爵となりました。
侯爵となった一族
侯爵になった家名をご紹介します。代表者名には、その家で有名な人をご紹介します。
家名 | 代表者名 |
---|---|
山階侯爵家 | 山階芳麿 |
久邇侯爵家 | 久邇邦久 |
華頂家 | 華頂博信 |
筑波家 | 筑波藤麿 |
音羽家 | 音羽正彦 |
粟田家 | 粟田彰常 |
小松家 | 小松輝久 |
久我家 | 久我通久 |
花山院家 | 花山院親家 |
大炊御門家 | 大炊御門経輝 |
今出川家(菊亭家) | 菊亭公長 |
広幡家 | 広幡忠礼 |
醍醐家 | 醍醐忠順 |
中山家 | 中山孝麿 |
嵯峨家(正親町三条家) | 嵯峨浩 |
中御門家 | 中御門経明 |
四条家 | 四条隆徳 |
尾張徳川家 | 徳川義親 |
紀州徳川家 | 徳川頼貞 |
浅野家 | 浅野長勲 |
岡山藩池田家 | 池田章政 |
鳥取藩池田家 | 池田輝知 |
黒田家 | 黒田長成 |
佐竹家 | 佐竹義生 |
鍋島家 | 鍋島直泰 |
蜂須賀家 | 蜂須賀正氏 |
細川家 | 細川護熙 |
前田家 | 前田利建 |
土佐山内家 | 山内豊範 |
越前福井藩松平家 | 松平康昌 |
伊予宇和島藩伊達家 | 伊達宗徳 |
琉球藩尚家 | 尚泰 |
大久保家 | 大久保利謙 |
木戸家 | 木戸孝正 |
西郷従道家 | 西郷従道 |
西郷隆盛家 | 西郷吉之助 |
井上家 | 井上馨 |
野津家 | 野津道貫 |
佐々木家 | 佐々木高行 |
小村家 | 小村寿太郎 |
大隈家 | 大隈重信 |
東郷家 | 東郷平八郎 |
まとめ
侯爵とは、華族制度の中で序列第2位に位置する爵位です。
外野から見ると、華やかで裕福な生活をしているように見えますが、その実態は全くの真逆です。
給与や資金の支給は一切ないため、自力でお金を儲ける必要がありました。
それにも関わらず、終身貴族院議員という大役まで担わされるという有様です。
なぜ、このような制度にしたのか記事を執筆しながら疑問でした。
兎にも角にも、私は維新三傑の子孫が横並びになったことが感動でした。
では、今回はこのあたりで終わりたいと思います。
西郷隆盛の子孫は、西南戦争が原因で華族からは除外されました。
しかし、西郷赦免後の1902年(明治35年)に子孫に爵位が与えられ、無事に維新三傑の子孫が同じ侯爵となりました。