天下統一を成し遂げた豊臣秀吉政権は何年続き、何をしたの?

日本史
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皆さん、お待たせしました。

ジャパニーズ・ドリームの先駆者 豊臣秀吉、第2弾です。

前回の記事では、豊臣秀吉が農村に生まれ、織田信長に仕え、運を確実に掴みながら天下人への階段を登っていく神憑った軌跡をお伝えしました。

前回のリンクを貼っておくので、まだお読みでない方はそちらからお読みください。

では今回は、前回お伝えできなかった、豊臣秀吉が天下人になったのお話をしていきます。

天下人になった豊臣秀吉は何をし、どれくらいの期間天下人として君臨できたのかなどをお伝えてできたらと思います。

天下人の期間

まずは、結論から。

豊臣秀吉が天下人だった期間は、わずか7年です。

秀吉が55歳のときに奥州の平定に成功し、天下人になります。

それから7年後の62歳のときに伏見城で薨去します。

この期間が長いと感じるか、短いと感じるか意見の分かれるところになりそうです。

太閤検地

まずは、豊臣秀吉の政策で一番有名な『太閤検地』からみていきます。

織田信長の敵である明智を山崎で討伐した後に、周辺の神社や寺から台帳を集めます。

その台帳に沿って、権利関係の確認を行う形で検地をしていきました。

ここで重要なのは、直接的に検知を実施したのではなく、あくまでも権利関係の確認をするという形にしたことです。

農民から反発を買うことを避ける文句としたのでしょう。頭がキレますね。

では、なぜ、こんな大掛かりなことをしたのでしょうか。

理由としては、2つあるのではないかと考えています。

理由1

よく巷で言われている理由です。

豊臣秀吉本人が農村の生まれで隠した土地を持っていることを知っていたからです

理由2

しかし、本当の理由はこちらではいかと考えています。

織田信長の奉公人をしていたときの経験からです

というのも、『検地』そのものは、織田信長もしていました。

このとき奉公人として仕えていた豊臣秀吉は、この検地の実務を担当していました。

この経験が自らが天下人になったときの活かされたのだと思います。

やはりたくさん農地を隠し持っているなと確信したのではないでしょうか。

そう考えると、理由1も理由2も正解ですね。

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秀次切腹事件

次は、人間臭さと秀吉の非情さをお伝えしたいと思います。

1591年(天正19年)

弟の秀長、後継者の鶴松が、相次いで病死したため、甥の秀次に関白職を譲りました。

ただし、実権は秀吉が持っている点には注意が必要です。

1593年(文禄2年)8月3日

側室の淀殿が秀頼を産みました。

秀頼が産まれたので、全てを秀頼に譲るかたと思いきやそんなことはありませんでした。

束の間の親心を甥に見せ、両方に天下を受け継がせたいと次の2つを考えました。

  1. 日本を5つに分け、その内4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲る
  2. 将来は前田利家夫妻を仲人として秀次の娘と秀頼を結婚させて婿舅の関係にする
    (つまり、秀頼の義理の父が秀次ということで、従姉妹と結婚する形になるわけです。)

しかし、そんなことは露も知らない秀次は、秀頼が生まれたことで「関白の座を逐われるのではないか」と不安になり病み、情緒不安定になりました。

1595年(文禄4年)7月3日

とうとう秀次に魔の詰問状が届きます。

そうです。謀反の疑いをかけられたのです。

秀次の勘が当たったのです。怖いです。

同年7月15日

夏を感じる中、福島正則を含む3人が「賜死の命令が下った」と秀次に伝えます。

命の尽きる日が来たわけです。死刑執行が告げられるのと同じです。

即日、秀次は切腹し、家臣らは殉死しました。

同年8月2日

喪失感に苛まれ、涙が尽きぬ中、三条河原に晒された秀次の首塚の前で、秀次の子供(4男1女)及び側室・侍女ら約29名が処刑されました。

秀吉は、女も子供も全員殺したわけです。

文字で書くと軽く感じますが、実際はそうとう重い話です。

秀頼誕生から約2年、関白職を譲り受けてから約3年のお話です。

サン=フェリペ号事件

一言でお伝えすると、乗組員の失言で始まったキリスト教徒への迫害事件です。

では、少しだけ詳細にお話をしていきましょう。

1587年(天正15年)

1587年(天正15年)に、バテレン追放令としてキリスト教の布教の禁止を命ずる令を発布します。

では、なぜ布教の禁止だけにしたのでしょうか。

それは日本が、南蛮貿易で莫大な利益を得ていたからです。

さらに、実質は布教すらも『黙認』していました。利益を生んでくれるからです。

しかし、約10年経過した日に怯えることになろうとは、このときの秀吉は思ってもいなかったでしょうね。たぶんですが。

1596年(文禄5年)8月28日

日本の学生はもう少しで夏休みが終わると嘆き悲しむ日々が訪れるころでしょうか。

そんなまだ暑さが続く8月に、四国の土佐沖にサン=フェリペ号が漂着します。

このときからサン=フェリペ号に運が無いことがわかることが続きます。

運の無さ①

まず、長宗我部元親の命により浦戸湾に移動しているときに湾内で座礁してしまいます。

運の無さ②

この座礁が原因で、大量の船荷が投げ出されます。

運の無さ③

乗組員の失言です。

サン=フェリペ号一同は、秀吉に対して船の修繕と乗組員の身柄の保護を求めるために、贈り物を持たせ使者を送りました。

しかし、見慣れない西洋人なのだから警戒して、秀吉は首を縦に振りません。

その代わりに、増田長盛を派遣しました。

このとき、増田が一同に以下のような秀吉の書状を告げます。

スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3名のポルトガル人ほか数名に聞いた

ー 松田毅一『秀吉の南蛮外交』新人物往来社、1972年、227-8頁

これ対して、水先案内人(航海長)をしていたデ・オランディアは世界地図を増田に見せながら、広大なスペインに対して、日本がいかに小さいかを説きました。

・・・このときから交渉の上に立とうと大きな態度で出ていることが分かります。

増田は冷静でした。

何故スペインがかくも広大な領土を持つにいたったか

このようにスペイン人に問いました。

これ対する回答が間違っていたのです。

そうです。またもやデ・オランディアは相手に恐怖心を抱かせようと大きくでたのです。

スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり

ー 日本大百科全書『サン・フェリペ号事件』文責松田毅一

このことを秀吉は聞き、キリストの弾圧に踏み切りました。

1597年(慶長元年)2月5日

後に「日本二十六聖人」と呼ばれるようになるフランシスコ会の宣教師3人と修道士3人、そして日本人信仰者20人が、京都や大阪などの関西から長崎に送られます。

そして、火あぶり・水責め・穴吊りといった悲惨な拷問を受け殉教します。

現在は、殉教地にレリーフが建っています。

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文禄・慶長の役

豊臣秀吉の朝鮮出兵のお話はご存知でしょうか?

日本で天下を獲った豊臣秀吉は、大明帝国を配下にしようと目論見ました。

明にまで兵を向かわされるためには、明の冊封国であった朝鮮を突破しなければいけません。

そこで秀吉は、朝鮮に対して服属しろと言ったのですが、首を縦に振りませんでした。

どうやって服属させようか。

秀吉は考えました。

まず遠征軍を朝鮮に出して、朝鮮を潰せばいいのではないか。

その結果、行われたのが2度の朝鮮出兵です。

1592年(文禄元年)に始まって翌1593年(文禄2年)

1回目の朝鮮出兵です。これを文禄の役といいます。

1597年(慶長2年)に始まって翌1598年(慶長3年)

2回目の朝鮮出兵です。これを慶長の役といいます。

最期の刻

1589年(慶長3年)7月4日

自分の死が近いことを悟り、伏見城に徳川家康を筆頭とする五大老を呼び寄せます。

このときに、徳川家康に対して秀頼の後見人になるように指示します。

反旗を翻されるとも知らないで。

同年8月18日

秀吉に最後の刻が訪れます。

世紀の天下人である豊臣秀吉は、その波乱万丈な生涯を終えました。

まとめ

まとめというよりは、私の感想(?)を添えて終わりたいと思います。

遅咲きだった秀吉が実質的に天下を取っていたのは7年です。

きっと長くも短い、そして濃い7年だったと推測しています。

悔いが無かったということはないと思います。

が、やりたいことはたくさんできたのではないでしょうか。

農村に生まれ、当時では最も底辺な身分から、皇族を除く最も位の高い身分の1つである『関白』にまで登り詰めました。

彼以上に成功する日本人はもう誕生することはないでしょう。

それが故に人気があるのかもしれません。

私は・・・なりたくないですがね・・・しんどそうです。とても。

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