いつだったろうか。
俳優の要潤がCMで「今日から香川県はうどん県と改名します!」と高らかに宣言していたのを思い出します。実際に、うどん県でも荷物は届くそうで、日本中では既に香川県=うどん県と認知されているように思います。
昔から香川県といえば『うどん』ではありましたが、より一層有名にしたのは丸亀製麺の台頭ではないでしょうか。あのコシのあるツルツルと喉越しの良いうどんは一度食べると病みつきになります。
今回は、そんな香川県の名物『讃岐うどん』の歴史を見ていきたいと思います。
讃岐うどんのルーツは弘法大師空海が作った
時は、1200年前の奈良時代のお話です。
讃岐一の有名人である弘法大師空海は、804年の31歳の時に遣唐使として入唐します。
そもそも麺文化の発祥は中国ではありますが、黄河中流域直前の太原、西安、洛陽の三角地帯で麺食文化が生まれたのもあり、西安では麺文化が大変発展していました。
西安で日常的に食べられている日常食であった「麺」に魅了された空海は、知識欲が旺盛なのもあり製麺技術をしっかり学びました。
入唐から1年弱が経過した806年の33歳のときに、「製麺技術・小麦粉」と共に日本へ帰国します。
ただ、空海の残した書物の中からは、うどんに関する記述は確認は出来ていないようです。
ルーツは団子汁
しかし、当時、空海の持ち帰った「うどん」は、現在のうどんとは全く違う物でした。
小麦粉で作った餡入りの団子を熱い汁の中で煮た「団子汁」のようなものでした。
西安では、これを『混沌(こんとん)』と読んでいました。
では、いつから『団子汁』は普及したのでしょうか。
日本のメインの食は昔から『米』です。しかし、奈良時代の古事記や万葉集にも多数の『麦』の文字が確認できます。また、平安時代の日本後紀や延喜式で『小麦』や『小麦粉加工食』の文字が確認できる点から、少なくとも奈良時代には『米』の裏で『麦』文化も存在していたと考えられます。
室町時代に入ると、庶民の間で石臼が普及し、食文化に変化が訪れます。
『団子』の普及です。
小麦を臼(うす)でつき、篩(ふるい)でふるって小麦粉を作り、それを練って「団子」を作るというお団子料理が電光石火のように広まりました。
小麦粉の歴史はまたどこかで取り上げてみたいと思います。
なお、昔話などに「お団子」が頻繁に出てくると思うのですが、それも室町時代以降に作られた話に出てきます。昔話に「お団子」が出てきたら、室町以降なんだなと思っていただいて問題ないと思います。
混沌からうどんへ
団子汁をより美味しくしたいと考えたのでしょうか。
香川県の讃岐の人々は、団子汁をどんどん進化させることにします。
まずは、団子汁の中に入っていた団子を「のして切って」湯がきます。ここでだいぶうどんの原型になります。
次にしたのは「味付け」です。これで出汁の効いた醤油ベースの美味しいうどんが完成します。
江戸時代には現在のうどんになっていた
では、いつから現在のようなうどんになったのでしょうか。
時期は明確ではありませんが、1688年~1704年の江戸時代に描かれた屏風である「金比羅祭礼図(こんぴらさいれいず)」に3軒のうどん店が描かれています。
この屏風から推測するに、この屏風は、日本全国でうどんに関する最古の資料ですので、少なくとも江戸時代には現在のうどんの形になっていたと考えられます。
讃岐にうどんが定着した理由
讃岐にうどんが定着した理由は1点だと考えています。
それは、『気候と風土』です。
讃岐は、温暖で雨の少ない干ばつ地帯で米作が上手くいきませんでした。そこで、目にを付けたのが雨が少なくても育つ「小麦」です。
雨が少なくても育ち、讃岐の上質な壌土という「小麦」の喜ぶ条件が揃った結果、讃岐の人々の命を繋ぐ大事な炭水化物となります。
そして、米の代用品の主食の地位を奪うために、所々のうどん点が技術を磨いた結果、現在の地位を確立するに至ったわけです。
まとめ
うどんだけでこんなにも歴史があるなんて思いませんでした。
いますぐに近所の丸亀製麺にうどんを食べに行きたいなと思うほどです。
そんな讃岐うどんですが、讃岐うどんと呼ばれるための条件を知っていますか?
条件があるんですよ。
では、最後にその条件をお伝えして締めたいと思います。
基準 | 香川県内で製造されたもの |
手打、手打式(風)のもの(※機械では駄目で、手打ちのみです) | |
加水量 – 小麦粉重量に対し40%以上 | |
食塩 – 小麦粉重量に対し3%以上 | |
熟成時間 – 2時間以上 | |
ゆでる場合 – ゆで時間約15分間で十分アルファ化されていること |
では、また次回、お会いしましょう。