日本最強の財閥・三菱財閥―「組織の三菱」と呼ばれた鉄の財閥の実態

日本最強の財閥・三菱財閥 日本史
この記事は約6分で読めます。

三菱と聞くと何を思い浮かべますか?

三菱商事・三菱UFJ銀行・三菱重工業・三菱自動車・三菱電機・・・三菱鉛筆?

一番多いのは三菱UFJ銀行と三菱自動車ですかね。

そして、きっと2010年に放送された大河ドラマ『龍馬伝』の影響で岩崎弥太郎のイメージが強い人も多いかと思います。

なんだか「弥太郎はあんなに汚くない」とか言われたらしいですね。。。

そんな創始者の弥太郎が運に恵まれて一代で築き上げた三菱帝国の軌跡をお話していきたいと思います。

どうかコーヒーでも飲みながらお読みください。

三菱財閥とは?

まずは、三菱財閥とは何かを話していきます。

三菱財閥は、土佐藩出身の岩崎弥太郎が混乱に混乱を極めた幕末・明治に設立した三菱商会を基盤に、政商として、明治政府の支援も得ながら海運業を独占し、莫大な利益をあげて一代で築き上げた財閥です。

三井財閥・住友財閥と他にも有名な財閥はあります。三菱財閥は、この三井・住友と並び三大財閥と言われています。

社風を現した言葉に、「組織の三菱、人の三井、結束の住友」というのがあります。ここからも三菱財閥は鉄の絆で結ばれていたことがよく分かります。

発展の形態を現した比喩に、三井は「番頭政治」、住友は「法治主義」と言われているが、三菱財閥は同族・世襲で発展してきたため「独裁政治」と言われる。ここにも三菱財閥の力強さを垣間見ることができますね。

九十九商会

1869年(明治2年)10月に土佐藩の林有造が海運業を専門とした土佐開成社を設立しました。この土佐開成社が後に九十九商会へと変わります。

林有造

林有造

土佐開成社の代表を海援隊の土居市太郎事業監督を岩崎弥太郎が担当したわけです。

1871年(明治4年)7月に廃藩置県がありました。これによって、土佐藩が消滅したことによって弥太郎は職を失いプー太郎になりそうなところ、九十九商会の経営者になりました。

九十九商会の経営者になった弥太郎は行動を起こします。

  • 藩船3隻払下げを受け貨客運航
  • 鴻池家や銭屋に抵当として抑えられていた藩屋敷(現在の大阪市西区堀江の土佐稲荷神社付近)の買戻し
  • 藩屋敷跡に本邸を構え事業を開始

三菱商会

1872年(明治5年)に九十九商会から三川(みつかわ)商会へと社名を変更しました。三川商会の代表は川田小一郎、石川七財、中川亀之助が務め、弥太郎の権限は有るのか無いのか謎な状態でした。

それから1873年(明治6年)に三菱商会へ社名を変更しました。ここで初めて「三菱」の名称が登場します。

さらに、1874年(明治7年)に本社を大阪から東京日本橋の南茅場町に移し、三菱蒸汽船会社へ社名を変更しました。そこから郵便汽船三菱会社となるまで幾度となく改名を重ね、海運業においては独占していきました。

この東京に本社を移転させたときに、土佐藩主山内家の三つ柏紋と岩崎家の三階菱紋を融合させて、三菱のトレードマークである「スリーダイヤ」が誕生しました。

三菱合資会社

1893年(明治26年)に商法が施行されたことによって、三菱社は三菱合資会社へと改組。この改組をきっかけに弥太郎の長男・久弥が三代目社長に就任。

1916年(大正5年)に弥之助の長男・小弥太が四代目社長に就任。

小弥太が社長に就任したことによって、三菱合資会社がやっていた事業を次々に分割化していきました。これにより、三菱財閥の基礎はできていきます。

  • 1917年(大正6年)に三菱造船、三菱製紙
  • 1918年(大正7年)に三菱商事、三菱鉱業
  • 1919年(大正8年)に三菱銀行
  • 1920年(大正9年)に三菱内燃機製造
  • 1921年(大正10年)に三菱電機

三菱財閥歴代総帥

初代 岩崎弥太郎 明治6年(1873年)~ 明治18年(1885年) 九十九商会
2代 岩崎弥之助 明治18年(1885年)~ 明治26年(1893年) 三菱合資会社総裁
3代 岩崎久弥 明治26年(1893年)~ 大正5年(1916年) 麒麟麦酒創業者
4代 岩崎小弥太 大正5年(1916年)~ 昭和20年(1945年) 三菱重工業創業者
5代 田中完三 昭和20年(1945年)~ 昭和21年(1946年) 三菱商事社長

岩崎弥太郎とは?

皆さんに三菱財閥で知っていて欲しいのは、岩崎弥太郎の運の良さです。

弥太郎が一番最初に利益を得たのは、全国統一貨幣制度です。どういうことかというと、明治政府は自分たちが権力者であると誇示するために、全国統一貨幣制度を始めました。

この情報を後藤象二郎から聞いた弥太郎が、十万両の資金をかき集めて藩札を買い占めました。この藩札を明治政府に買い取らせることで莫大な利益を得ることに成功したわけです。

つまり、後藤象二郎の存在が無かったら三菱財閥は存在しなかったかもしれません。

スポンサーリンク

戦後の三菱財閥

三菱財閥も例外なく財閥解体により、バラバラにされました。

財閥解体とは、GHQの経済民主化の一環により行われた過度経済力排除政策です。

元々、日本は財閥解体には消極的でしたが、三井財閥の三井本社の解体論や安田財閥の安田保善社の解散・安田一族の辞任及び保有株式の公開という方針が打ち出されたことにより、「財閥解体やむなし」となり財閥解体が決行されることになりました。

過度経済力集中排除法が可決・成立・施行され、三菱財閥は、三菱本社・三菱商事の解散を始め、三菱地所の関東不動産と陽和不動産への二分割、三菱重工業・三菱化成の三分割などでバラバラになりました。

また、岩崎家11人が「財閥家族」に指定され、保有株式を没収されました。11人の名前は、弥太郎家からは久弥、彦弥太、隆弥、恒弥、康弥、勝太郎(豊弥の長男)弥之助家からは孝子(小弥太の妻)、輝弥、八穂(俊弥の妻)、忠雄、淑子(俊弥の次女で小弥太の養女、忠雄の妻)です。

「国民としてなすべき当然の義務に全力を尽くしたのであって、顧みて恥ずべき何ものもない」

-病床にいた小弥太の言葉

当時の模様を久弥は以下のように語っています。

「すっかり裸になった。土佐の郷里の土地と東京の墓地だけが残った。自分はこれまで長子以外は一族親戚の者も三菱本社に参加させなかったのに(11人もの指名を受けるとは)ヒドイものだ」

-岩崎久弥伝

相当、酷いものだったんでしょうね。

三菱鉛筆のスリーダイヤとは?

冒頭の質問の選択肢の中に三菱グループでない会社がありました。

三菱鉛筆です。

三菱財閥を語る上で切っても切り離せないのが、この三菱鉛筆です。

少しだけ三菱鉛筆について解説を加えておきます。

1878年(明治11年)のパリ万博で鉛筆を始めて見て、その感動が忘れられなかった創業者の眞崎仁六が、血の滲むような努力と研究を重ね、日本初の鉛筆工業生産に成功しました。

その後も幾度となく失敗を重ねながら試行錯誤を繰り返しました。

1901年(明治34年)に『局用鉛筆』として「逓信省(現:総務省)御用品」に採用されました。これにまたもや感動した創業者の眞崎仁六は、記念の商標を登録することにしました。

それが三菱鉛筆のスリーダイヤです。

三菱財閥が商標登録したのが1914年なのに対し、三菱鉛筆が商標登録したのは1903年です。三菱財閥よりも15年も前に登録しています。

スポンサーリンク

最後に

戦前の財閥については、大変興味があり色々と調べてきました。

調べてきたことを記事にまとめようとすると、なかなか大変なんだなという感じがします。

次に機会があるときは、その他の財閥についても記事にできたらなと思います。

では、今回はこの辺で終了とします。

なお、歴史会議では三大財閥全ての記事を書いています。
よろしければ併せてお読みください。

参考文献

三菱グループサイト
https://www.mitsubishi.com/ja/
商標とブランド | 企業情報 | 三菱鉛筆株式会社
https://www.mpuni.co.jp/company/ci.html
スポンサーリンク
タイトルとURLをコピーしました