皆さん、広島県の名物って何かご存知ですか?
「お好み焼き」って答える人が多いのではないでしょうか。
しかし、広島には世界で有名な名物があります。
島の全体がご神体である『宮島』の名物・「もみじ饅頭」です。
実際に、2009年に朝日新聞が行ったアンケート調査「日本一のまんじゅうは?」では堂々の全国第1位に君臨した饅頭です。
そんな世界で有名な「もみじ饅頭」の歴史をお話していきたいと思います。
いつ誕生し、なぜ「もみじ」饅頭と呼ばれるようになったのか、その真実に迫っていきましょう。
では、一緒にタイムトラベルの旅を楽しみましょう。
もみじ饅頭は伊藤博文の一言がきっかけなの?
内閣総理大臣を辞任して大勲位となっていた伊藤博文がよく立ち寄った旅館があります。
宮島のもみじ谷にある旅館「岩惣」です。
実はこの「岩惣」、かなり凄くて、後の大正天皇である嘉仁親王を始め大韓帝国皇太子(のちの純宗)や夏目漱石などの多くの著名人や要人が宿泊していました。
この岩惣に和菓子を納品していたのが、世界で初めて「もみじ饅頭」を作った高津堂・高津常助です。
岩惣の女将・栄子からの相談で「銘菓」作りに着手
岩惣の女将・栄子が、和菓子職人であった高津常助に「大切なお客様への手土産に、紅葉谷の名にふさわしい菓子が作れないか」と相談を持ち掛けます。
このときには何を作ろうかと頭を悩ませていた高津常助です。
伊藤博文の冗談を聴いて「もみじ型饅頭」を思いつく
伊藤博文は日本で唯一鬼を祀っている宮島の霊峰である恋人の聖地・弥山を訪れていました。
そのときに宿泊していたのが「岩惣」でした。
「岩惣」のあったもみじ谷の入り口には茶店がありました。その茶店で休憩した伊藤博文が働いていた女の子にこう言いました。
このセクハラまがいの発言をたまたま聞いていた「岩惣」の仲居をしていた「おまん」が、高津にこの話と一緒に「もみじの形をしたお菓子を作ってはどう?」助言をします。
このときに、「もみじ型の饅頭」を思いつき「もみじ饅頭」の製作に入ります。
もみじ饅頭の原型の完成
1906年(明治39年)
何度も失敗を重ね何度も試作し試行錯誤を繰り返して、もみじ饅頭の原型となる「紅葉形焼饅頭」を完成させ、販売を開始します。
現在のもみじ饅頭とは形が少し違い、尖った感じの広島銘菓「もみじ饅頭」が産声を上げた瞬間でした。
「名人」と称された和菓子職人が作るもみじ饅頭は、日が経過しても生地が固くならずふわふわもちもちやわらかさが変わらないとの評判で、焼きたてを買おうと店の前に行列ができました。
1910年(明治43年)7月18日
4年後の1910年に「紅葉形焼饅頭」を商標登録します。
後に名前を「もみじ饅頭」に変え、世界的に有名な和菓子へと変貌します。
当時の商標権の登録期間は20年間ですので、普通であれば20年を経過する日までに更新の手続きを行います。しかし、高津常助は更新せずに誰でも名称が使える状態にします。
その他
高津常助は、宮島の菓子組合(現・広島県菓子工業組合西支部)の中長を務めていました。そのためか、職人育成にも力を注いでいました。
岩惣の女将・栄子の言葉もあり、もみじ饅頭を高津堂だけで独占販売して終わらせるのではなく、宮島名物となるように、もみじ饅頭が作れる職人を養成したので、もみじ饅頭を作れるお店がたくさん出店され広まっていきました。
当時は1個1つの型に生地とあんこを入れて焼き上げるタイプでしたので、職人の腕によって見た目も味もまばらでしたが、高津常助のお陰で宮島の土産品として根付きました。
なぜ、高津常助が試行錯誤して苦労して発明した「もみじ饅頭」を他の職人が作ることを嫌がらなかったというと、絶対に味で負けることはないと腕に自信があったからだと思います。同じレシピでも同じ味が出せないのが、職人技ですからね。
2代目高津昇 ~ 一度途絶えた「もみじ饅頭」の歴史 ~
父の跡を継ぐために、和菓子職人として高津堂で修業していた「高津昇」が2代目を継ぎます。そんな2代目を継いだ「高津昇」は色々なこと実行していきます。
まず、店の移転。もみじ谷にあった店を宮島口の対岸へと移動させます。これが現在ある店となりまあす。次に、業種の移行。もちろん最初の頃は銘菓であるもみじ饅頭も製作・販売するのですが、和菓子屋から酒屋へと移行していきます。
大事なことは「最初の頃」という点です。2代目の「高津昇」はもみじ饅頭の製作・販売をやめてしまいます。
これには理由があるのです。実は、父で初代高津堂店主「高津常助」は昔ながらの職人で「技や味は盗むもの」という考えから、跡取りである「高津昇」にでさえにも「もみじ饅頭」の作り方を一切教えなかったそうです。
もちろん、努力はしたと思います。少しでも父の味に近づけるために、日々、毎日、試行錯誤に試行錯誤したのですが、同じ味が出せない。断腸の思いで、「父の名を汚すことはできない。高津堂の看板を汚すことはできない」という父譲りの職人気質もあり、もみじ饅頭の製作・販売をやめる決意を固めました。
たった一代だけの「高津堂もみじ饅頭」の歴史に幕が降りた瞬間でした。
3代目加藤宏明 ~ 初代常助の「もみじ饅頭」の復興 ~
高津堂は3代目加藤宏明さんの時代へと突入します。
名字が違うので直系ではないのですかね。
そんな加藤宏明さんは幼少期の頃から「もみじ饅頭を作りたい!」という夢がありました。その夢を抱いたまま3代目を継ぎ、家業を続けていた50歳を過ぎたある日、「もみじ饅頭を作ろう!」と決心します。
祖父・常助、父・昇と違い、和菓子職人としての素養も技術もノウハウもない加藤宏明さんは、販売に漕ぎ着けるまで数年を用する覚悟で開発に臨みました。
昔、食べた祖父・常助の作った「もみじ饅頭」の味を思い出しながら、日々研究・試行錯誤していきます。
ありがたいことに知人の和菓子職人などの協力もあったので、数年の月日を用する予定でしたが「半年後」、「半年後」の2009年の7月18日に元祖もみじ饅頭の特徴である【日数が経過してもふわふわもちもちやわらかさの食感】という境地に手が届き、元祖「もみじ饅頭」が復活を果たしました。
余談
他にも、もみじ饅頭の面白い話があるのでお伝えてしていきたいと思います。
もみじ饅頭を発売している店舗
明治末期
高津常助と一緒に岩惣へもみじ饅頭を納品して「岩村」(現・岩村もみじ屋」が創業されます。現在では最古のもみじ饅頭屋さんとなっています。
1925年(大正15年)
「藤井」(現・藤い屋)「勝谷」(現・勝谷菓子舗)が製造・販売を開始します。
この頃に、「宮島饅頭」「紅葉型饅頭」などいくつかあった名称が「もみじ饅頭」へと統一されることになります。
ちなみ、現在、「勝谷」(現・勝谷菓子舗)はコッペパン屋さんになっています。
1932年(昭和7年)
山田商店(現・やまだ屋)が製造・販売を開始します。
じめはこしあん入のみだった?
現在のもみじ饅頭はこしあんとつぶあんがあるのですが、元々はこしあんのみだったのをご存知ですか?
では、なぜ、つぶあんも作れるようになったのでしょうか。
それは約90年も遡るのですが、1934年(昭和9年)5月10日に高松宮宣仁親王が宮島を訪れたときのお話です。「岩村」(現・岩村もみじ屋)の初代店主・岩村栄吉に「つぶあんはないのか」と尋ねました。これを聞いた岩村栄吉がつぶあん入りもみじ饅頭を開発しました。
そのため、岩村もみじ屋は「元祖・つぶもみじ」を名乗っています。
最後に
最後に感動するお話をお届けして終わりたいと思います。
下記の引用をご覧ください。
後で分かったのは、偶然にもこの7月18日は
先代 常助がもみじ饅頭を商標登録した日と
同じ日だったのです!運命的なものを感じずにはいられませんでした。
先代・常助が「紅葉形焼饅頭」を商標登録した日と同じというではありませんか。ちょと目がうるっとしました。感動的ですね。。。お祖父様も復活して欲しかったのですかね。
お祖父様には高津堂だけでなく、宮島、そして広島県のこれからも見てて欲しいなと思いました。
実は、私、高津堂のもみじ饅頭は食べたことがないです。美味しいという話は聞いたことがあるので、機会があれば食べてみたいなと思います。
おすすめのもみじ饅頭
やまだ屋のもみじ饅頭
広島県内でもかなり有名なもみじ饅頭のお店です。