実は、歴史会議を始めたときから、戦前は軍都・学都と呼ばれた広島県の歴史について書きたいと考えていました。
広島県は、原始爆弾が落とされた地として、戦艦大和の誕生の地として、島全体がご神体という宮島・厳島神社を擁する地として、世界中でも知らない人はいないであろうと思います。
今回は、そんな魅力溢れる広島県を少しでもお伝えてできればと思います。
では、少しずつ見ていきましょう。
原始時代の基礎知識
まずは、原始時代の基礎知識をおさえましょう。
原始時代といえば、旧石器時代・縄文時代・弥生時代あたりまでを指す言葉です。
- 旧石器時代とは、マンモスなどをウッホウッホと追っかけていた時代です。
- 縄文時代とは、稲作が始まり多少は人間らしくなった時代です。
- 弥生時代とは、土器も薄くなり多少は皿っぽいのが作られはじめた時代です。
陸続きだった旧石器時代の広島県
約3万年前のウルム氷河期の頃は、広島は四国と九州とも陸続きでした。ということは、当時の広島は海から果てしなく遠くに位置する内陸県だったわけです。ちなみ、現在の広島は瀬戸内海に接している県です。
今の広島は海の幸に恵まれ美味しい食べ物も多い県ですが、当時の広島県人は海に接していないのでどうやって食べ物を獲得していたのでしょうか。
旧石器時代は、狩猟・漁労が主な時代でした。というよりも、狩猟・漁労しかない時代です。広島も例外ではなく、アジア大陸からノシノシとやってきたナウマン象やオオツノジカを狩猟して食べていたハンターでした。
石器も各地様々な形がありました。
広島県では、国府型ナイフを使用していました。国府型ナイフとは、瀬戸内技法で裂き割られた剥片を加工した石器のことです。
なお、私の持っている書籍には石鏃の記述がないので、どういった方法でナウマン象をハンティングをしたのかは謎です。
しかし、こういった暮らしの真偽は明確ではありません。
考古学的にも謎が多いのが事実です。なぜならば、当時の人たちは移動する生活が主だったので、生活用品も最低限しか持たないため生活実態が掴みにくいわけです。
瀬戸内海が誕生した縄文時代
1万3000年前に海面が上昇し始め、6000年前までの約7000年前までに瀬戸内海が誕生しました。いわゆる、縄文海進です。
瀬戸内海が誕生したことによって、狩猟がし難くなりました。その結果、移動する生活から定住する生活へと変化し、狩猟が減っていきました。しかし、まだまだ集落を形成するまでにはなっていません。
結構、貝塚は見つかっているので広島に来られたらご覧にください。例えば、福山湾周辺の貝塚や大田貝塚(尾道市)などがあります。
広島の原始時代を伝える帝釈峡遺跡群
最後に、広島の原始時代を現代に伝える大事な遺跡をご紹介します。
ヒバゴンで有名な比婆郡があった庄原市東条町から神石高原町まで広がる巨大遺跡群である帝釈峡遺跡群です。
帝釈峡遺跡群が見つかるまでは、旧石器時代・縄文時代の広島県でどのような生活をされていたのかは定かではありませんでした。しかし、帝釈峡遺跡群から当時の動物の骨やら貝殻、状態の良い人骨などが出るわ出るわでかなり紐解けてきています。
また、全国的にも珍しい話なのですが、広島大学の調査団により、1962年(昭和37年)から継続的に調査研究が続けられています。私は、50年以上も続けられている調査活動は他には知りません。
では、少しだけ中身についてもご紹介します。
アイキャッチ画像にもしている帝釈馬渡岩陰遺跡という帝釈峡遺跡群の1つをご紹介します。
この遺跡は、現在5つの層が確認されています。
考古学というのは、掘ってなんぼというところがあり、地層ごとに時代を確認していきます。層が上なほど時代は新しく、下にいくほど時代は古くなります。
第1層~第4層までは縄文時代で、5層が旧石器時代となっています。
- 第1層~第3層には石鏃や狸の骨が見つかっています。石鏃と狸が見つかるということは、石鏃を付けた弓で狸を狩っていたと推測されます。狸って食べられるんですね。
- 第4層には、石鏃や尖頭器、イノシシの骨が見つかっています。というこは、槍でイノシシを狩っていたと推測されます。
次は、旧石器時代の香りがぷんぷんする第5層です。
- 第5層には、多くの石器の破片やオオツノジカの骨がでています。うん。これは旧石器時代ですね。
このように遺跡が一つ見つかるだけで、多くのことが分かります。
発掘調査などに興味があれば、ぜひ、考古学の勉強をしてみてください。
最後に
今回は、広島の歴史を取り上げました。
以前から広島の歴史についての記事を書こうと思っていましたが、なかなか執筆できていませんでした。
今後もこのように、概説という形で広島の歴史をさっくりとお伝えてしていけたらなと思います。
では、このへんで終わりにしたいと思います。