皆さん、オノ・ヨーコはご存知ですか?
あの有名なジョン・レノンと婚姻をした女性です。
実は、彼女は安田財閥と縁がある方なのです。というのも、実は、彼女は、安田財閥創始者の安田善治郎の曾孫です。
驚きですよね・・・
レノン家は、日本有数の大財閥の曾孫と婚姻したということになります。
今回は、そんな日本四大財閥の一角を担う安田財閥を取り上げてみたいと思います。
奉公人として下積み時代
安田財閥を1代で築いた男は、現在の富山県生まれ育ちました。
そんな男は20歳で奉公人となるべく江戸に出てきます。最初はおもちゃ屋さんで奉公し、鰹節屋兼両替商に転職しました。
江戸は夢のある街でした。26歳のときに独立し、乾物と両替の安田商店を開業し、幕府御用商人となります。これが当たりに当たり、巨万の富を得ます。
さらに稼ぐために、全く信頼性の担保のない額面割れした太政官札に貸付を行い、大量に収集することに力を入れます。これが大正解で、財閥の基礎資金となっていきます。
1869年(明治2年)
「正金金札等価通用」の布告によって額面引き換えが行われます。
額面割れした太政官札を額面割れした価格で貸付、額面引き換えがされるわけなので、当然、差額が儲かるわけです。先見の明がありますよね。
この辺りから、金融財閥としての片鱗が見えています。
1876年(明治9年)
明治政府は第三国立銀行を設立します。
これは、安田善次郎が率いる安田商店を押し退け、金融業務を担うために設立しました。
1880年(明治13年)
安田善次郎は第三国立銀行に対抗し、安田商店を安田銀行に改組し、諸官庁の両替等の御用達となり、無利子で官金を引き受け業務を拡大します。
財閥の礎を作る時代
この頃から、安田善次郎は事業を拡大し、安田財閥の礎を作り始めました。
1887年(明治20年)
安田保善社を設立して財閥の要とし、釧路硫黄山(鉱山)と釧路鉄道、函館倉庫と、安田善治郎はとうとう銀行業以外へ手を広げていきます。
特に安田善次郎が力を入れたのが、『硫黄』です。というのも、硫黄は火薬の原料になるため海外に輸出すると儲かるためです。
安田財閥の基礎を築くための資本は、この『硫黄』にあったのです。
1893年(明治26年)
帝国海上保険を設立し、損保業務の充実をはかります。
1894年(明治27年)
共済五百名社を共済生命保険に改組し生保業務も盤石にしました。
同じ年に、海運会社安田運搬事務所を設立しました。
1896年(明治29年)
不動産業務の東京建物を設立
1897年(明治30年)
国産の洋釘を製造するために安田製釘所(現安田工業)を設立
同じ年に、太平洋興発(三井財閥傍系)の前身となる安田炭鉱を釧路に設置
1899年(明治32年)
拡大した事業を統括するために安田商事を設立し統率をとり、同年紡績業務として西成紡績所を設置
創業者・安田善次郎から脱却を試みる時代
1909年(明治42年)
安田善次郎が一線を退き、番頭であり次女の婿である安田善三郎(伊臣貞太郎)が経営を主導する。
1911年(明治44年)
安田銀行と安田商事を合併、株式会社安田銀行とし、銀行の近代化を図る。
1919年(大正8年)
善次郎と善三郎の経営に対する確執(日本鋼管に対する支配強化を主張する善三郎と、浅野総一郎を尊重する善次郎)から、安田善三郎が安田家を去る。事態の収拾をはかるため善次郎が安田家内で理事職を分担し、集団指導態勢を敷く。
1921年(大正10年)
安田善次郎が凶刃に倒れ、安田家の混乱が起こるが、長男の安田善之助が二代目善次郎を襲名し、番頭に日銀大阪支店の結城豊太郎を抜擢。結城は安田財閥の組織変革と人材の刷新を断行し安田銀行とその傘下15行を揺るぎない組織に仕立てた
1929年(昭和4年)
またもや安田家との確執から結城が解任され、台湾銀行頭取の森広蔵を番頭に抜擢する。
1936年(昭和11年)
二代目善次郎が急死し、その長男である安田一が安田保善社総長に就く。
1940年(昭和15年)
森は安田銀行副頭取から退き、安田財閥は徐々に安田一を中心とする体制へと移行するが、程なく終戦を迎える
同族経営からコンチェルへ移行する時代
1946年(昭和21年)
GHQによる「財閥解体」により安田保善社が財閥本社に認定され解散。安田家に対しては財閥家族として認定し、資産凍結とともに持ち株の放出を命じ、更に関連会社役員への就職制限までも行われた。
日本の主権回復後
安田家は安田関連会社への就職制限を解かれ、安田銀行の後身である富士銀行を中核として、芙蓉グループを形成した。安田財閥は企業集団としての復活はみたが、同族経営による支配体制ではなくなった。
最後に
凄く有名なお話をお伝えします。
1986年(昭和43年)に起きた東大紛争のさいに、全学共闘会議に占拠された安田講堂という建物が東京大学にあります。
では、何故、「安田」講堂というのかご存知ですか?
これは安田善次郎が匿名で建設資金を寄付し建設したからなのです。善次郎の生前は匿名を守れていたのですが、死後に寄付をしたことが知られるようになったので、安田講堂と呼ばれるようになったのです。
ちなみに、正式名称は「東京大学大講堂(とうきょうだいがくだいこうどう)」です。
なお、日比谷公園の中にある日比谷公会堂も安田善次郎が350万円もの寄付をして建設しました。
こう見ると、個人では安田善次郎がダントツで凄いかもですね。