世界中にはたくさんの財閥が存在しています。
代表的な財閥では、
- 世界最強と云われるイギリスのロスチャイルド家
- 世界の政財界を牛耳っていると云われるアメリカのロックフェラー家
- 世界のスマフォ業界のトップに君臨する韓国のサムスングループ
たった3行ですが、お伝えすることすら恐れ多い名前が並びます。
そんな恐れ多い財閥を紹介する第3弾として、現在では三井住友銀行、住友化学、住友商事などに冠される「住友」グループの源流となる「住友財閥」を取り上げたいと思います。
「住友財閥」、本当に凄い財閥なんですよ。
住友家の始まり
「始祖」・住友忠重(備中守忠重)(すみともだたしげ)
平家一門の桓武天皇の曾孫・高望王の22代目子孫に備中守忠重という男が生まれます。
その忠重が父の名前(順美平内友定)から「順美」と「友」を取って、「住友性」を名乗り、武士への転職に成功し幕府に仕えることになります。
これが住友家の始まりであると考えられています。
武士を辞めるまでの子孫の話
「始祖」・住友忠重の子・頼定(すみともよりさだ)
室町幕府12代目将軍の足利義晴に仕えます。
室町幕府15代将軍・足利義昭が流浪せざる負えない身となり、織田信長に京から追い出された原因が、この12代将軍の義晴にあったりします。
この話は、いずれまた別の機会にしたいと思います。
いずれにしても、室町幕府の後半期を作った義晴に仕えたんだから、まぁ、大変だったでしょうね・・・
住友頼定の子・定信(すみともさだのぶ)
刑部承と名乗る。なぜ、刑部(おさかべ)と名乗ったのかは謎です。
ちなみに、刑部とは允恭天皇の皇后である忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の名代をしていた一族の名前です。
よく「けいぶ」と読む人がいますが間違えないので注意をしてください。
名代は、王族の宮号を部名にして、宮の生活に奉仕した部民です。具体的には、身の回りの世話(とねり)や護衛(ゆげひ)、食膳の用意(かしわで)などをしていました。
子代は、王族の宮号を部名にして、王族の子女の養育に奉仕した部民です。
住友定信の子・定重(すみともさだしげ)
駿河今川家の第8代当主である今川義忠(今川義元の祖父)に仕える。
詳しい歴史は調べましたが、いまいち分かりませんでした。
住友定重の子・信定(すみとものぶさだ)
駿河今川家の第12代当主である今川氏真(いまがわうじざね)のときに、武田信玄と徳川家康の同盟軍に駿河を攻められ、大名今川家が滅亡しました。
そのため、摂津の中川清秀に仕え、入江土佐守と名乗ります。
中川十六騎の最強の勇士として勇猛果敢に戦いますが、残念ながら尾崎の陣で戦死します。
中川十六騎とは知っていますか?
中川清秀とは、キリシタン大名で有名な高山右近の従兄弟で、清和源氏系の戦国武将の1人です。
そんな摂津の中川清秀が擁した猛将集団が中川十六騎といいます。その中で最も強かったと云われているのが入江土佐守信定です。
詳しい資料をみたことがないので、あまり資料がないのですかね?
入江土佐守(信定)の子・政俊(いりえとさのもりまさとし)
越前の柴田氏に仕え、若狭守と名乗ります。
いずれ柴田勝家の記事を書く時にお伝えしようと思っているのですが、北ノ庄城の戦いという柴田勝家の人生最後の戦いがあります。
その戦いで、越前丸岡城にいたのにも関わらず、主君・柴田勝家と一緒に戦い戦死します。
若狭守(政俊)の子・政行(わかさのもりまさゆき)
豊臣秀吉の養子となっていた徳川家康の息子である秀康を、関東平定に尽力してくれた家康への恩返しのために、北関東の大名結城氏へ婿養子として出します。
政行は、そんな時代に翻弄された結城秀康(ゆうきひでやす)に仕えますが、武家だと先は無いと考え、自分の子供たちには武家の世界から足を洗わせました。
「家祖」・住友政友(すみともまさとも)
住友政友は、最後の武士・住友家の当主であった住友政行の次男として生ました。
12歳のときに母と弟と一緒に涅槃宗(ねはんしゅう)の開祖空源上人に弟子入りします。
そして、涅槃宗を熱心に布教し、空源上人の右腕として立派な僧に成長し、「文殊院空禅」の法号を賜り、涅槃宗の後継者と見られていました。
しかし、1617年に後陽成天皇が崩御すると涅槃宗が邪教として扱われ、空源上人と一緒に佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)に配流となります。
残念ながら、涅槃宗は同年に天台法華宗三明院門流として天台宗に吸収合併され、日本か消えることになります。
1621年に政友は京へ帰ってきたのですが、もちろん、涅槃宗は既に存在しません。
そこで政友は還俗せず、どの宗派にも属さない僧として「員外沙弥(いんがいしゃみ)」「員外沙門(いんがいしゃもん)」と名乗り、空源上人の遺教戒を継ぐ「佛者」を一途に貫き徹しました。
僧として生きていくためにはお金も大事です。
お金を稼ぐ手段として始めたのが、書籍と医薬品を担う「富士屋」です。
これが商家・住友家を興した「家祖」・住友政友です。
「業祖」・蘇我理右衛門
「家祖」住友政友には1男1女のお子さんがいました。
「富士屋」は、長男である政似に継がせます。
そして、長女の婿養子として「業祖」・蘇我理右衛門の長男である理兵衛友以(住友友以)を住友家に迎え入れました。
「業祖」・蘇我理右衛門は、元々銅吹き(銅精錬)、銅細工の職人になるべく大坂・堺で修行していました。
その後、若干、19歳という若さで京都寺町五条で自分の店を開き、屋号を「泉屋」としました。
そして、「泉屋」を開店してすぐに南蛮人の白水から「南蛮吹き」という精錬法を学び、完成させ、大坂の同業者仲間にも伝授した。
南蛮吹きとは、粗銅から銀を分離する精錬法のことです。粗銅に金・銀が含まれていることなんて、当時の日本には知っている人は1人もいませんでした。とういことは、これを分離する技術を知っている人はいません。
こんな秘密の技法を学んだ住友家は、その技術を独占することによって、莫大な資本が築かれたと言っても過言ではありません。
住友財閥の創設と発展
二代目住友家・住友友似
彼には商才がありました。
京都では商売を大きくできないと悟り、商業の中心地となりつつあった大坂へと少しずつ拠点を移転し始めました。
この判断が吉と出ました。
江戸時代に入り、銅が輸出品として盛んになり、住友家の精銅業が儲かりました。この銅貿易の関係から、糸、砂糖などの輸入品も手に入り、あちらこちらで売り捌き、手広く商売を始めました。
輸入品を安く手に入れ高く売るという『せどり』の典型商売をして儲けていました。
そして、その手広く商売をしていた結果、莫大な利益を手にして、財閥では必ずしている両替商を始めました。
これが住友財閥の起源です。
三代目住友家(初代吉左衛門)・住友友信
二代目の住友友似の五男であった住友友信が初めて住友吉左衛門と名乗ります。
そんな彼は、銅山師となって秋田の阿仁銅山、備中の吉岡銅山などの経営を始め、日本一の銅鉱業者として住友家を発展させます。
一方で、住友友似の末っ子である友貞は両替商を継ぎ、江戸でも両替商を始めます。
現在、17代目住友吉左衛門を襲名しているのが『住友芳夫』という方です。
四代目住友家(二代目吉左衛門)・「中興の祖」住友友芳
二代目吉左衛門友芳は1691年に愛媛県の別子銅山を開発しました。
この銅山が、住友のドル箱となり、住友財閥を財閥へと大躍進させることになります。
1973年の閉山まで約300年の間で、総産出量は銅地金として75万トンも銅を産出し続け、その額いくらになるのかも想像もできません。
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・(時飛ばしをして)
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十七代目住友家(十五代目吉左衛門)・住友友純
明治維新を経て、明治政府はこれまで幕府が与えていて決定と特権を全て廃止するという強行へでました。
その結果、土地所有権と有用鉱物の採掘権は切り離され住友家は失速していきます。
幕府の財産であった銅山は、政府や各藩による差押えの対象となり、住友家は採掘権と統制力を失いました。
そこで、当時の住友の番頭であった広瀬宰平がその対応に当たります。
広瀬宰平
一歩間違えれば、住友の経営は終わり、何人ものの従業員が路頭に迷うという状況でした。
しかし、そんな難局にも関わらず広瀬宰平は無事に乗り切ります。
その後、広瀬宰平が住友の大番頭(総理事)となり経営に当たります。
一難去ってまた一難とはこのことをいうのかもしれません。またもや、広瀬宰平に難題が舞い込んできます。住友家の跡取り問題です。
跡取りのいなかった十三代目吉左衛門・友忠の次をどうするか、暫定的に母の登久が十四代目に就任しましたが、その次がいません。
頭を悩ませに悩ませた結果、徳大寺家の友純を迎えいれることにしました。
住友銀行の創業
1895年5月に広島県尾道市で住友家の重役会議が開かれ、銀行業への進出が決定しました。
そして、その半年後の11月に住友吉左衛門個人が100万円を出資し、住友銀行を開業しました。
そして、驚きなのが住友銀行の初支店は広島県尾道市なんです。驚きですよね。現在でも、三井住友銀行の尾道支店として現存しています。
これによって、住友財閥の「住友御三家」の一角である住友銀行が創業されます。
住友財閥の「住友御三家」といえば、
- 住友銀行(現在の三井住友銀行)
- 住友金属工業(現在の日本製鉄)
- 住友化学
です。
最近では「住友新御三家」といわれています。以下に列挙します。
- 住友商事
- 住友電気工業
- 日本電気 (NEC)
財閥解体
1945年8月
この段階でどこよりも早く住友財閥の身の振り方を考え始め、ある日、住友本社の課長職以上の管理職を集めて、戦後対策の会議を始めました。
議題は、「戦後復興・事業転換・人材離散防止策」。
全ての議題の中でも最も大事だったのが、「財閥解体に対処する方法」でした。
この会議で決定されたのは、以下の5原則です。
- 拡張しきった各方面の事業の収拾をはかるとともに、人材の離散を防ぎ、それぞれにできるかぎり仕事を与える。そのための新事業を企画する。
- 海外引揚者とその家族の援護を十分にする。
- 住友本社と住友各社の債権者にできるかぎり誠実に対処する。
- 住友の全事業をできるだけ滅ぼさずに転換し、将来民族と国家の繁栄につながるようにする。
- 極力累を住友家に及ぼさない。
同年10月24日
住友財閥は、戦後対策会議から約2ヶ月後に本社・関連会社の管理職を集めて、以下のように内示しました。
- 住友本社を解散する。
- 住友本社の現業部門については農林業・鉱業部門は住友鉱業へ移管する。
- 代表取締役住友吉左衛門、同古田俊之助以下住友本社の取締役・監査役は全員辞任する。
- 上にともない住友系各社はそれぞれ自主独立の会社として事業の経営にあたる。
- 住友系各社の社名中「住友」の名称はこれを避けることとし、逐次社名を変更する。
つまり、この内示をもって、住友本社は住友財閥を解体することを決定したということです。
これをもって、住友財閥は終焉を迎えました。
解体の理由
では、なぜ、三井財閥や三菱財閥に比べると、解体にこんなにも簡単に応じたのでしょうか。
理由は以下の2点です。
- 住友本社の監事であった大島堅造が大内兵衛と田村幸策と一緒にGHQの非公式顧問をしていたので、情報が得やすかったこと
- 安田財閥が自発的に解体を始めたこと
現在の住友グループ
財閥解体から5年後の1949年に白水会が設立されました。
白水会とは、旧住友財閥の関連会社である住友各社の連携を維持するために、住友直系12社の社長によって構成された秘密会です。
しかし、1950年代になりその存在を明かし、戦後の混乱期にも関わらず、三井財閥・三菱財閥よりも早く連携意識を高めました。
戦後にも、「結束の住友」を轟かせた一幕でした。
プチ住友財閥が復活した感じですね。
まとめ
どうでしょうか。読者の皆様に、住友財閥の凄さが伝わりましたか?
平家一門として名家出身にも関わらず、武士へと転職し、その後は商家として大成功。
一時は、没落するかの危機をも経験しましたが、他の財閥には無い「結束力」でその苦難も乗り越え、現代まで続く「住友」となりました。
三菱や三井と比べると、何だか身近にも感じるのではないでしょうか。
とりあえず、住友財閥で三大財閥は書き終わりました。
三井・三菱財閥のリンクも貼っておくので、よろしければ併せてお読みください。
もっと詳しく住友財閥を知りたい方へ
ここまで住友財閥の記事を読まれた方は、きっと住友財閥に大変ご興味があるのだと思います。
そんな知的好奇心が旺盛な読者の方へおすすめの書籍をご紹介します。
是非、参考にして読まれてみてください。
日本の15大財閥
新書だからなのか大変読みやすい本になります。
詳細を知るには不向きですが、概要を知るには向いています。
この後に、ご紹介する本を読む前に読まれるのがおすすめです。
住友の歴史 上下巻
住友史料館が編集に加わっているので、信ぴょう性に関しては他書を群を抜いています。
ただ、専門書を読み慣れていないと、少し読みにくいかもしれません。
通読用ではありません。調べ物用です。はい。
三菱・三井・住友 「三大財閥」がわかる本
専門書ほどの詳細な情報は要らないけど、ちょっとだけ詳細な話を知りたい!と思った方におすすめの書籍です。
みんな大好きな三笠書房さんの知的生きかた文庫から出されている三大財閥の概要本です。
日本の15大財閥よりは密度も濃く、詳しく書かれています。
「住友の歴史 上下巻」では気が重いという方は、是非、こちらの書籍を読まれてみてください。